タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。
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ある日、50代の知人がこう言いました。「これからは人生100年時代よ。50代半ばで子育てが終わったら、また恋をして人生をやり直すの。私の友達、みんなそれで盛り上がってる」
バリバリ仕事をして10代の子どもを育てている彼女が「もう一度恋をする」と瞳をキラキラさせる姿は新鮮で、可憐ですらありました。そして、会うたびに彼女は輝きを増していくのです。
子育てをシェアする相手と、老後をシェアする相手は違ってもいいと説く人もいます。彼女にとっていまのパートナーは「我が子という存在を自分と同じくらい大切に思っている、世界にたった一人の仲間」で、子育てという任務を遂行する上では最高の相棒。「でも、そのタスクが終了したら他の人と生きたい。親同士ではない、一人の人間として互いを尊敬できる相手と、人生の最後の風景を見たいの」と言います。
人と人の間には性愛だけではない、さまざまなつながりがあります。性愛がなくなったら夫婦ではないと考える人もいる一方で、性愛がなくても続く関係こそが夫婦だという人も。肉体の限界を考えれば後者に理がありそうですが、何も性愛には性的な能力が不可欠というわけでもないようです。
性愛で結ばれた間柄とは、互いを性的な存在として認め合える関係のことでしょう。性的なあなたを受け入れるとか、性的な自分を委ねるとか。官能は身体的な接触の有無にかかわらず、関係の粘度を高める情念によってもたらされるのかもしれません。
50過ぎたら2度目の人生をと希望を語っていた彼女が、ある時ふと顔を曇らせました。
「夫が仕事を辞めるかもしれないの。そしたら私、この先ずっと彼を背負わなくちゃいけなくなってしまう」
それは私も同じ運命。これまで妻を終生養い、2度目の人生を夢見ることのかなわなかった男たちは何を思っていたのだろうと気になります。この社会の根深い女性嫌悪の源流は、男たちが封印している怨嗟なのかもしれません。
※AERA 2018年5月28日号