これが銀行の仕事なのか。多くの銀行員が悩んだ。中小企業を前向きに支えたいのに、融資を求められると、「貸せません」と答えるしかなかった。稟議(りんぎ)を書いても書いても審査部が承認せず、世間から「貸し渋り」と批判された。それどころか、業績が比較的順調な中小企業から融資を引き揚げる「貸しはがし」も横行したとされる。

 関連する取引が金融庁の検査で問題視される事例も相次いだ。コンプライアンス(法令順守)が注目され、「セ・リーグ」「パ・リーグ」とささやかれる人事異動が絶えなかった。それぞれセクハラ、パワハラを指す。

銀行員は理想と現実のギャップに押しつぶされそうになりながらも、歯を食いしばって働いた。だが03年、りそなホールディングスに2兆円近い公的資金が注入。不良債権がもとで信用力に不安が生じた結末だ。事実上の国有化。銀行として「死」を意味すると受け止められた。

 復活に向け、銀行は経営統合を選んだ。規模の拡大で体力の強化をめざし、最終的に05年、現在の3大グループにまとまった。各行の処遇や用語の違いをどうやって統一するか。みずほを例にとれば、富士銀行では営業を「工作」と言い、第一勧業銀行や日本興業銀行の出身者には伝わらなかった。用語の比較、一覧表をつくったそうだ。

この間、「金融ビッグバン」でさまざまな規制緩和が進んだ。そのひとつ、銀行の窓口で投資信託、生命保険などの販売が解禁された。手数料を新たな収益の柱にしようと力を入れ、日本株の暴落で大損した人も「銀行が売る投信なら買ってもいい」と前向きだった。まだ銀行に対する信頼は残っていたと、胸をなで下ろす行員も多かった。

 本格的に順風が吹き始めたのは08年、米国の低所得者向け住宅ローン(サブプライムローン)問題で投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻したリーマン・ショックがきっかけだ。日本の銀行は傷が浅く、ほぼ公的資金を完済していたこともあって、優良企業もメインバンクとの取引を再び重視するようになった。前出の次長がしみじみと語る。

「ここで銀行の社会的評価も見直された感触がありました」

*呼称はすべて当時
(編集部・江畠俊彦)

AERA ※AERA 2018年1月22日号より抜粋