同年代で本部勤務の幹部も、本当によく働いたと思う半面、「これでいいのか」と考えることがある。数年前に受けた「たそがれ研修」を思い出した。40代半ばを対象に、半日ほど開かれる。外に出ると年収も職位も下がる。退職金や年金の将来像を精緻に示すことで、生活設計を見直す。出向や転籍した先でうまくなじめるように、銀行員の固定観念も捨てるように求められる。気がつけば同期の3分の1はみずから銀行を去り、3分の1は関連会社に出て、3分の1しか残っていない──。

 若かったころも思い出した。年号が平成に変わり、バブル真っ盛りだった。日本中が好景気に踊り、融資の案件が次から次へと舞い込んだ。1日17時間は仕事に追われていた。それでも週末は合コンづくし。銀行員というだけでモテまくった。なにしろ30歳で年収1千万円だ。就職活動中の後輩に真新しい超高層ビルを指さし、「おれが貸したカネで、あれが建った」と自慢したこともあった。

 自慢された側も銀行に就職を決めた。1997年のことだ。ここで時代は暗転する。株価や地価の暴落に足を引っ張られて大企業といえど倒産や業績悪化は避けられず、銀行にとっては返済されない融資、つまり不良債権の山が積み上がるばかりだった。

 翌年にかけて北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が経営破綻に至る。金融システム全体が揺らぎ、98年から公的資金の注入が始まった。2年で総額26兆円を超える。一部は債務超過の穴埋めに使われ、国民負担となった。「安定」の象徴だった銀行ですら、明日をも知れぬ不況の幕が開いた。

 別の銀行に勤める40代半ばの次長も、この時期に入行した。新卒研修を経て配属されると、支店長の指示はたった二つ。

「預金を集めろ」

「既存融資の金利を上げろ」

 理屈も何もない。「どぶ板営業」だった。担当企業に行っては「うち、しんどいんです」と、頭を下げ続けた。合コンでは人気が急降下。銀行員と名乗ると、「ノルマがきついんでしょ?」と逃げられた。銀行はブラック企業の代名詞となった。

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