この作文を書いた、少し勝ち気そうな児童は、約30年後も宜野湾市内に暮らし、中学教諭になっていた。40歳で2児の母親でもある女性は、学校でも自宅でも上空に米軍ヘリが旋回し、常に危険にさらされる生活だったと振り返り、こう言った。

「低空飛行は怖かった。中にいる軍人の顔も見える。登下校のときも落ちるんじゃないか、落ちたらどこへ逃げようかという意識が、いつも頭の中をめぐっていました」

 第二小時代の授業風景で女性が記憶していたのは、黒板の片隅に書かれた「正」の字だ。当時、教室にはエアコンが未設置で、冬場をのぞき、窓はたいてい開け放たれていた。このため、ダイレクトに米軍機の騒音にさらされ、たびたび授業が中断した。その都度、黒板の端っこに「正」の字で回数を記す担任教諭がいたという。それを見れば、1日の授業で何回中断したかが一目瞭然となった。

 普段は声高に「基地被害」を唱えることもない教諭の「無言の抗議」であることを、児童の多くは気付かなかった。だが女性はある日、「何これ?」と教諭に尋ねた。そのとき担任教諭はこう諭したという。

「この数が多ければ多いほど、あなたたちは、よその地域の人と比べてマイナスが大きい、ということになるんだよ」

 女性はこのとき初めて、「自分たちにはマイナスのものがあるんだな」と自覚したと振り返った。

■幻の接触事故

 4人の娘も全員、母子2代にわたって第二小育ちの女性(49)からは、5年生のときの授業中の光景として、こんなエピソードを聞いた。

 米軍機が学校の上空を通過した際、「ガガガガ」と尋常でない反響音がした。騒音に慣れた児童たちも、このときばかりは、何ごとか、と教室の窓から身を乗り出して屋上を仰いだという。女性はこう語った。

「今思えば、その後、ニュースにもならなかったので、何も起きていなかったのかもしれませんが、あのときは、米軍機の機体が屋上のタンクにでもかすったのだろう、くらいに思っていました」

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筆者が感じた危機感とは?