だが、いずれも結果論だ。諏訪二丁目住宅がブリリア多摩に生まれ変わるには、長い陣痛と夢を見続けるエネルギーが必要だった。道のりは平坦ではない。諏訪二丁目住宅の入居開始から間もないころ、住民間の激しい意見の衝突で自殺者が出ている。厳しい時期もくぐっているのだ。

 時計の針を半世紀ちかく戻し、建て替えに至る物語を掘り起こしてみよう。

 1971年、多摩ニュータウンで最も早く、諏訪・永山地区の入居が始まった。オリンピックの開催に合わせて道路や鉄道が整備された東京都は、毎年30万人ちかく人口が増え、住宅難に陥っていた。国策でつくられた団地は、しかし質より量が優先され、お世辞にも住みやすいとはいえなかった。日本住宅公団(後に住宅・都市整備公団→現・都市再生機構[UR])が開発した諏訪二丁目住宅の周辺には造成中の砂山が並び、風が吹くと猛烈な「砂嵐」に悩まされた。入居者はせっせと植樹をし、砂塵を防ぐ。一方で駐車場は60台程度しかなく、大幅に不足していた。

 ここで、団地の世論は「植栽を潰して駐車場を増設せよ」と「車より人、緑の住環境を守れ」の真っ二つに割れた。車派は、近くの公団の土地に勝手に砂利を敷いて駐車場にした。緑派は、一本たりとも樹木は伐(き)らせないと抗う。両派の主導権争いは管理組合の運営にも及び、葛藤の渦中で現職の理事長が自ら命を絶った。

●実力行使も辞さない自立心 建て替え期待後バブル崩壊

 80年に入居した元多摩市会議員の松島吉春(66)は、住民気質をこう語る。

「昼に始まった住民総会が夜9時過ぎまで続きました。管理組合の理事会の対立が総会に持ち込まれるから揉めます。でも、初期入居者たちは混乱があっても自分らで何とかする自立意識が強かった。国や都を相手に実力行使も厭わない。その気質は管理会社に頼らない自主管理に継承されましたね」

 駐車場問題は多くの家が車を持つに従って増設へと傾き、自然に消滅した。

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