日立はこの危機対応にあたって、日立本体から日立マクセルに出ていた川村隆氏を呼び戻し、本体の社長兼会長に据えた。川村氏は、世界中を回って金策に奔走。ところが、まったく相手にされなかった。当時の様子について金融関係者はこう明かす。

「“天下の日立”のはずが、誰もお金を貸してくれないばかりか、市場関係者から激しい叱責を浴びた。彼は死ぬほどショックを受けたんですね。厳しい現実を前に、愕然としたわけです」

 この屈辱があったからこそ、川村氏は「覚悟」をもって構造改革に乗り出し、事業の“選択と集中”を実践した。

 まず将来性が高いと判断した日立マクセルなど上場子会社5社を完全子会社化した一方、テレビのプラズマディスプレー工場は売却し、国内の薄型テレビ生産と携帯電話、パソコン用HDDからは撤退。事業が一部重複していた日立金属と日立電線を合併させ、既得権勢力の抵抗で改革が進まなかった分野に、危機こそチャンスと切り込んだ。

 ところが東芝トップはこれとは逆に、部下に「チャレンジ」と称して現実離れした目標を強要し、組織ぐるみの不正に走った。その結果、主要銀行から融資の継続は得られはしたものの、構造改革に踏み切るチャンスを失ったのだ。

 そんな東芝の西田、佐々木両氏らとは対照的に、日立の川村氏は立て直しに向かった。方向性を定めると、翌10年、中西宏明氏に後を託して会長に退き、二人三脚で改革を続け、11年3月期には2388億円の黒字を達成。13年度から2期連続で過去最高益を計上している。(経済ジャーナリスト・片山修)

AERA 2017年4月17日号