29年目を迎えた中洲の女みこし「爽快感がたまらんとよ!」 (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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29年目を迎えた中洲の女みこし「爽快感がたまらんとよ!」

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三宅玲子AERA
ドレス姿のキャバ嬢や髪を高く結い上げた和服のクラブママが行き交い活気づく夕暮れどきが、中洲の朝だ(撮影/比田勝大直)

ドレス姿のキャバ嬢や髪を高く結い上げた和服のクラブママが行き交い活気づく夕暮れどきが、中洲の朝だ(撮影/比田勝大直)

 年に一度の中洲國廣女神輿。担ぎ手は、都市銀行や生命保険会社の会社員、事務職、主婦など、さまざま。最初はぎこちなかった女神輿の足取りがきれいに揃い、「そいや」のかけ声が弾む。

 前日の雨がきれいに晴れ上がった。ネオンが灯り始めた夕暮れの街に濃いめの化粧でキメた法被姿の女性が続々と集まる。70代から下は小学生まで、ワクワクと緊張が入り交じったその数はざっと200人。

 福岡市の歓楽街・中洲。ビルとビルの間にひっそりと赤い鳥居を構える國廣神社の前だ。

 九州一の歓楽街・中洲の始まりは江戸時代・黒田藩までさかのぼる。中洲町連合会専務理事で中洲の歴史に詳しい川原雅康さんによると、江戸時代に黒田藩が税収を求めて遊郭を認めたのが、中洲の始まりだった。

 江戸時代、那珂川と博多川に挟まれた中洲地帯を真ん中に、西には黒田藩の武士の街・福岡、東には商人の街・博多が広がっていた。中洲に遊郭がつくられたことをきっかけに料亭などができると、商人も武士も中洲で遊んだ。以来400年、歓楽街として歴史を刻んできた。

 19時。國廣神社のご神体を担いだ女神輿が出発する。

●中洲の発展は家業繁栄

「そいや」のかけ声とともに法被姿の女性たちが2基の神輿を担ぎ上げた。神輿の上には前方に2人、後方に2人が上がり、手であおぐようにして神輿を担ぐ女性たちを景気づける。

 中洲國廣女神輿では、参加する担ぎ手は全員順番にこの「台上がり」をする。高い位置から見下ろす快感がたまらず毎年参加する人が多いのだという。

 女神輿が、1975年に始まった中洲まつりの主役となって今年で29回になる。中洲まつりを始めたのは、博多明太子を開発したことで知られるふくやの初代・川原俊夫さん(故人)だ。73年のオイルショックの影響で中洲のネオンは12時で消され、歓楽街の元気を失いかけた。このとき街に活気を取り戻そうと川原さんが町内に声をかけて始めた。

 戦後、福岡は焼け野原となった。48年に中洲に公営の市場が開設され、満州から引き揚げてきた家族とともに川原さんは商売を始めた。ここで開発した辛子明太子の特許をあえて取得せず、だれでも辛子明太子で商売ができるようにしたことから、博多名物となった。川原さんをはじめ、戦後中洲で一から人生を始めた人たちは、高度経済成長の波にのって再び歓楽街として発展していくこの街で家族と暮らし、商売をしてきた。


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