「編集する遺伝子が、遠い未来にとってすごく重要なものだったら? 人類の可能性をつぶすことにもなりかねません。ゲノム編集以外も含めて、生まれた後または胎児での治療の研究を優先すべきです」

 今回の成功も、マウスでは研究が難しい精神・神経などの病気の解明や治療法の開発への一歩と考えている。

 しかし、私たちの心配を助長する出来事が実際に起きた。

●中国ではヒトで実施

 15年4月、中国・中山大学(広東省)のグループは、サラセミアという遺伝病の原因遺伝子をクリスパー・キャス9で修復したと発表した。

 体外受精で1個の卵子に2個の精子が入り込み、成長できなくなった受精卵を使った。ゲノム編集の結果、目的通り遺伝子が置き換わったものもあったが、それは実験した受精卵86個のうち4個だけ。目的外変異やモザイクも見つかった。ただ、この胚を子宮に移植することは最初から計画されていなかった。

 研究が制度に先行している現状を何とかしようと、人間でのゲノム編集をテーマにした国際会議「ヒトゲノム編集サミット」が15年12月、米国のワシントンで開かれた。まとめられた声明では、実験室で行う基礎研究は規制と監視の下で認める一方、臨床応用、つまりゲノム編集した胚を子宮に戻すことは認めなかった。結果的に中国の研究を追認したように読める。

 しかし、中国ではさらに流れが加速。今年4月9日、広東医科大学のグループがHIVに感染しにくくなるゲノム編集を人間の受精卵に行ったと発表した。

 中国の2例を、ほかの研究者たちはどうみているのか。倫理的な問題以前に、科学的な妥当性に疑いがあるようだ。サラセミア、HIVとも、すでに体細胞の遺伝子治療がうまくいき始めている。広東医大のケースについては、まるで「HIV耐性」の人間を誕生させようとしているようにさえ見える。

●英では国が研究承認

 今年2月1日には、英フランシス・クリック研究所が、人間の受精卵にゲノム編集を行う研究について、英政府機関「ヒトの受精及び胚研究認可局(HFEA)」の承認を受けたと発表した。国の機関が、人間の受精卵ゲノム編集を認めたのは世界で初めて。研究者らは、体外受精で余った受精卵のゲノムを編集し、成長に不可欠な遺伝子を調べる。

 英国で認められた研究計画については、少なくとも科学的な妥当性はあるという声もある。しかし、「英国で成功したとしても、日本ではそんなにうまく許容されることはないでしょう」と、国立成育医療研究センター生殖医療研究部の阿久津英憲部長は言う。「日本ではまだ社会的な議論が深くなされていません。英国では1978年の体外受精児誕生以来、時間をかけています。背景が違うのです」

 日本では、遺伝子を改変した受精卵から子どもを誕生させることは、遺伝子治療の指針で禁止されている。ただし、強制力はない。また、この指針は基礎研究を対象としていないので、日本には基礎研究のルールはまだ存在しない。

 今年4月22日には、内閣府の生命倫理専門調査会が、人間の受精卵にゲノム編集を行う基礎研究は「容認される場合」があるとする「中間まとめ」を公表した。臨床応用は、安全性や倫理面での問題があるとして認めなかった。ワシントンでの声明に追随した形だ。

 生物学者や医学者だけでなく、人文・社会科学者、そして患者や一般市民も交えた議論を広く継続し、国際的な研究の進め方や規制のあり方を探ることが急務である。(サイエンスライター・粥川準二)

AERA 2016年9月12日号