渋谷クロスタワーのテラスにある、尾崎豊の「歌碑」尾崎は高校時代、この場所によく立ち寄ったという(撮影/編集部・野村昌ニ)
渋谷クロスタワーのテラスにある、尾崎豊の「歌碑」尾崎は高校時代、この場所によく立ち寄ったという(撮影/編集部・野村昌ニ)
歌碑には多くの寄せ書きがある。この日も若者2人がおとずれていた(撮影/編集部・野村昌ニ)
歌碑には多くの寄せ書きがある。この日も若者2人がおとずれていた(撮影/編集部・野村昌ニ)

 伝説のロック歌手、尾崎豊。生きていれば、ちょうど50歳だ。死後24年が経つが、今もなお、その言葉に生きる力をもらう人たちがいる。

 1983年、当時高校2年だった尾崎詩絵里さん(49、ハンドルネーム)は、LP盤から流れてくるデビューしたばかりの歌手の曲に釘づけになった。

「衝撃的でした。彼の歌が、すっと私の中に入ってきたんです」

 彼の名は、尾崎豊。大人社会や管理教育への反抗、自由を訴えたロックンローラーだ。92年4月、衝撃の死で26年5カ月の生涯を閉じたが、生きていれば、今ちょうど50歳だ。

 詩絵里さんは中学時代、校則が厳しく、前髪は眉毛より上で、スカート丈はひざまでだった。毎週ホームルームの時間になると、担任に測られた。高校は進学校。模試の成績で常に順位づけされ、友人ですらライバル。何のために戦うのか、親も教師も教えてくれなかった。しかし、尾崎が教えてくれた。

 僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない/正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで(僕が僕であるために)

 戦うのは自分が自分であるためだ、と歌ってくれた。自己肯定でき、だから受験戦争も乗り越えることができた。自由を教えてくれたのも、尾崎だった。

 自由っていったいなんだい/君は思う様に生きているかい(Scrambling Rock‘n'Roll)
 
 今、尾崎が生きていれば、どんな歌を歌っていただろう。最近、よく考える。

「尾崎は感受性が強く、人の痛みがわかると思います。今、世界で起きる内戦やテロ。そこで傷つく人や、家族や、大切な人を失うことによる心の悲しみや苦しみを歌っていたのではないでしょうか」(詩絵里さん)

 尾崎は65年、東京で生まれた。青山学院高等部に通っていた83年、シングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビュー。85年、4枚目のシングル「卒業」が大ヒットし、あっという間に「10代の代弁者」「反抗のカリスマ」となった。

 だが、尾崎のデビュー当時からの制作パートナーとして知られる音楽プロデューサーの須藤晃さん(63)は、尾崎は世間で言われていたような「反抗のカリスマ」ではなく「哲学者に近かった」と振り返る。

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