『響きをみがく――音響設計家 豊田泰久の仕事』
朝日新聞出版より発売中

 クラシック音楽好きでは、かなりの部類に属すると自認するものの、主に海外特派員として記者人生を重ね、音楽を専門にしたことがない筆者がなぜこのような本を書くに至ったのか。それは、「音響設計家」という、世の中にあまり知られていない職業を持つ豊田泰久(とよたやすひさ)氏との出会いがきっかけである。英語で言うところのアコースティック・デザイナーなる肩書を持つ彼は、コンサートホールの響きを「設計する」ことをその生業(なりわい)としている。

 クラシック音楽専用ホールの草分け、東京・赤坂のサントリーホール(1986年完成)を30代半ばで手がけたのを皮切りに、その後、ロサンゼルス、パリ、ハンブルクなど欧米の主要コンサートホールの音響を次々に設計し、新ホール建設の大きなプロジェクトの度に必ず音響担当の本命としてその名が挙がる。欧米メディアが「音響の魔術師」「音響の教祖」などと称する、この世界のトップランナーである。

 欧米では、クラシック音楽の関係者の間で「トヨタ」と言えば、自動車メーカーではなく彼のことを指すくらい有名な存在だが、ある作曲家を囲む飲み会の場で私が初めて豊田氏と出会った2009年には、日本のメディアで彼に注目する人は、まださほど多くはなかったと思う。

 その後、中東特派員として「アラブの春」や「シリア内戦」を追いかけていた筆者に連絡が入った。2013年のことである。「イスラエル・フィルの本拠地テルアビブのホールで音響の改修を手がけたので、聴きに来ませんか」
 地中海に臨むホテルのロビーで話を聞くと、世界各地のコンサートホールづくりをめぐって、著名な指揮者や建築家たちと直接やりとりした興味深いエピソードが次から次に出てくる。

 もともと筆者にとって関心の高い分野であるとはいえ、質問を重ねるうちにインタビューは4時間近くに及んだ。エピソードはその場でも生まれた。ロビーに姿を現した世界的指揮者ズービン・メータに「ズービン、ミスター・イシアイは日本の新聞記者なんだけど、今晩の演奏会の合間にインタビューさせてくれないかな」と掛け合い、メータは二つ返事で「いいよ」と応じたのである。

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