中東から戻り、国際報道部長という管理職になった後も興味は尽きず、上海シンフォニーホールの完成に合わせて密着取材したものを、朝日新聞の週末特集版「be」の<フロントランナー>で取り上げた。幸運と偶然も重なった。その後、16年から約三年間、ヨーロッパ総局長としてロンドンに赴任した間は、豊田氏が手がけたハンブルク、ベルリン、パリなど欧州の新ホールが相次いで完成した時期と重なった。オープニング前のリハーサルに立ち会い、時には、指揮者との打ち合わせや会食の場にも同席させてもらった。新聞記事に掲載しきれなかった様々な事実や取材秘話を通じて、「音響設計家の仕事とは何か」「いい響きとは何か」を探ってみたいと思ったのが本書執筆のきっかけである。

 取材したのは、指揮者ではダニエル・バレンボイム、サイモン・ラトル、ワレリー・ゲルギエフら、建築家では、フランク・ゲーリーやジャック・ヘルツォーク(建築家ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンの建築家の一人)といった世界でも指折りの人たちである。

 音響を改修したホール、あるいは新たなホールの響きについて、真っ先に思い浮かべるのは「残響時間」であろう。筆者も当初、「残響時間」と「響きの良さ」には相関関係があると思い込んでいた。国内には「残響2秒」を究極の音響としてうたう有名なホールがあるが、名ホールとして知られるウィーン楽友協会大ホールの残響時間は3・27秒。世界屈指の音響として知られる同ホールの残響は「2秒」から大きくかけ離れている。しかも一つのホールで残響時間は同じなのに、響きのいい席とそれほどでもない席があるのはなぜなのか。本書を読んでもらえれば、演奏会のチケットを買う際に、価格以外に何を考慮すれば素晴らしい体験ができるか、ヒントを見つけてもらえるかもしれない。

 コロナ禍でコンサートホールのライヴ演奏が困難に直面するなかで、彼が「音響設計家」として考えていることにも触れた。コンサートに通うことがあまりない「録音派」にもライヴに関心を持ってもらうきっかけになればと思う。なにしろホールとは、それ自体が楽器でもあるのだから。

 本書では、指揮者や建築家といった巨匠(マエストロ)たちと「契約を超えた」人間関係を結び、時には数百億円規模のプロジェクトを進めていく豊田氏の生き方、ネットワーク力、英語でのコミュニケーションにも焦点を当てている。音楽や建築の世界を目指している若者だけでなく、世界を舞台にするビジネスパーソンにとっても参考になるところがあればこれほど嬉しいことはない。