「きみはどうしようもなく才能もなくてセンスもなくて、そしてそれに劣等感を背負いながら、そう見せかけようと努力ばかりする。好きな食べ物も好きな音楽もどれもこれも平凡で、少し他人と変わった所があると、それを誇りに思っている。その態度だ、その他者よりすこしでも上に行こうとするそのみじめな姿がぼくは好きだ。だってきみはみじめでかわいそうで、ぼくはきみのこと、軽蔑したいだけできるから」(『星か獣になる季節』より)
誰もがあの日々を生き延びて、今この瞬間を過ごしている。
平坦な戦場は死ぬまで続くのにも関わらず、ときおり十代の日々を思い返すことが大人になってもある。そのスイッチを押す作品というものが存在している。十代の頃に見ていた景色やその時期に影響を受けたものが、万華鏡のように色鮮やかに光りながら、同時に漆黒の闇が共存する世界を描いてしまう人たちがいる。
岡崎京子著『リバーズ・エッジ』や岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』、最近では枝優花監督『少女邂逅』などの作品が浮かぶ。そして、この最果タヒ著『星か獣になる季節』という作品もその系譜にある。これらの作品におおまかな共通項があるとすれば、主人公である少年少女たちのあわれもなく過ぎ去ってしまう十代という「季節」の中で、生と死と性が混ざり合い、何かを犠牲にしてその「季節」が終わる瞬間を描いているという点だろう。
詩人としても若い世代に圧倒的に人気があり、詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が映画化された最果タヒさんの最初の小説が『星と獣になる季節』である。単行本は2015年に発売されており、今回文庫化された。単行本では横書きだったものが文庫では縦書きになっているという点が一番の大きな違いだろう。収録されているのは表題作『星と獣になる季節』とその2年後を描いた『正しさの季節』の二編。
『星と獣になる季節』は地下アイドル・愛野真実の応援だけが生き甲斐の、クラスでも存在感のないぼく(山城)は、ある日、彼女が殺人犯だというニュースを聞く。同じクラスのみんなに好かれているイケメン・森下の姿が教室にないことに気づき、授業を抜け出して彼女の実家に向かう。クラスでも交流のなかった二人だが、ぼくはライブで何度も森下の姿を見かけていた。そんな二人が、彼女が本当に殺人を犯したのか、真相を探し始めるというストーリー。一編目の『星か獣になる季節』が彼らの物語であったのなら、二編目の『正しさの季節』は彼らと同じクラスにいた人々の話である。それはわたしたちの物語とも言えるだろう。
山城と森下の同級生である女子・渡瀬の「17歳は、星か獣になる季節なんだって。今日、やった英文読解にね、書いてあった」という台詞からタイトルが取られている。少年たちのアイドル(愛野真実)を巡る思いが次第にズレていく、いや、最初からまったく違うものだったことがわかってくる。物語はぼく(山城)の視線から語られていくが、始まってしまった出来事はもう止まることない。そして、タイトルの意味が最後に強く反響してくることになる。
わかるようでいて、わからない気持ちが蠢く。その気持ちがわかるよと簡単に言ってはいけない、かつてはわかっていても今はもう違うのだからと言い聞かす。でも、確かにその片鱗を持ち続けて、わたしたちは日々を生き抜いてきたのだと再確認をする。
もう、戻ることはできない季節の中で、そこに留まってしまった懐かしい顔を思い出すかもしれない。彼らは年を取らずに思い出の中にだけ存在している。わたしたちはもう戻れないことに安堵し、同時にどうやってここまでやってきたのかという現実に震える。
この小説が今の十代や二十代前半の人たちのライナスの毛布のように必要とされ、言葉にできない気持ちを優しく、しかし冷静な温度で包んでくれるのではないだろうか。そして、そんな彼や彼女が次の世代にここから受け取ったものを新しい言葉にして繋げていくのだろう。