「自分たちのサッカー」を掲げてブラジルW杯に臨んだザックジャパンの挑戦は、2敗1分けという結果に終わりました。



 考えてみれば、1990年代以降の日本サッカーをとりまくファンの心情は、"自虐"と"自尊"の歴史を繰り返してきました。



 ドーハの悲劇(自虐)⇒Jリーグの盛り上がり、アトランタ五輪でブラジルを倒したマイアミの奇跡、そして初のW杯出場を決めたジョホールバルの奇跡(自尊)⇒フランスW杯本大会での惨敗(自虐)⇒初の自国開催W杯でトルシエジャパンがグループリーグ突破(自尊)⇒「世界と真っ向から撃ち合う」ことを選んだジーコジャパンのドイツW杯惨敗(自虐)⇒本大会直前に守備重視の戦術へチェンジし、ベスト16入りした南アフリカW杯(自尊)......。



 そして誕生したのが、「自分たちのサッカーを貫く」ことを標榜したザックジャパンです。



 今回紹介する本は、作家・橘玲氏の社会評論集『バカが多いのには理由がある』。刺激的なタイトルが目を引く同書の中に、こんな論考があります。



≪私たちはみんな、進化の過程で強力な"正義感情"を植え付けられた「バカ」である。だから「光と徳の物語」(自分たちは正しい)を必要とする≫



≪なかでも、日本や中国、韓国をはじめとする後進近代国家は"自虐"と"自尊"を繰り返す。これは「遅れてきた」という事実が、自分たちに都合のいい物語(自分たちは正しい)を紡ぐことを難しくしているため≫



≪近年の日本の"右傾化"は、一部の政治家の思い入れではなく、もはや東京裁判史観(自虐)を受け入れられない多くの日本人が新しい「自尊の物語」を求めているから≫



 これは国家のナショナリズムについての解説で、安倍政権下の日本の現状をスッキリと言い表しているのではないでしょうか。



 では、日本サッカーにこの見方を当てはめてみるとどうでしょう。 



 客観的に見れば、日本は明らかにサッカー後進国。優勝経験国やW杯常連国のような、「俺たちは強い」という確固たる物語はありません。



 守りを固め、耐えて勝った南アフリカW杯の後、「日本はパスサッカーでも世界に勝てる」と公言し、ビッグクラブに移籍した長友、香川、そして本田......。多くのファンは、彼らに「遅れてきた日本サッカー」という"自虐史観"からの脱却を託したのです(これは、かつて中田英寿の世代に注がれた視線と似ています)。



 ブラジルW杯で「自分たちのサッカー」が粉砕され、日本サッカーは再び"自虐"からスタートを切ることになりました。印象的だったのは、大会中のコメントでもこうした「物語」と距離を置いているように見えた内田が、コロンビア戦後に語った言葉です。



「サッカーの難しさ、国で戦うことをあらためて思い知った。自分たちのサッカーをすれば勝てます。でも、できない。これが地力じゃないですか。世界は近いけど、広い」



 世界は近い。そのひと言に、日本サッカーの希望があると信じたいところです。



 もうひとつ、橘氏の著書に興味深い指摘があります。



≪欧米人などと比較した場合、日本人は"俺"ではなく"俺たち"を自慢する傾向が顕著。これが「ニッポンは世界から尊敬されている」という意識につながっている≫



 テレビ中継の異常な盛り上げ方に象徴される、サッカー日本代表に対する過剰なまでの思い入れには、こんな深層心理があるのかもしれません。次のロシアW杯では、日本代表はどんな「物語」を背負って戦うのでしょうか。