続いて第6位に選ばれたのは、石田三成が水攻めを行った忍(おし)城。最寄り駅の、秩父鉄道の行田市駅から徒歩15分と至便。


忍城の御三階櫓は、江戸時代に代用天守として使用した櫓を復興したもの
忍城の御三階櫓は、江戸時代に代用天守として使用した櫓を復興したもの

 忍城は、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に築かれた城で、城の周囲は水堀と土塁によって守られていた。さらに広大な沼地が取り囲んでおり、大軍では攻め難い。

 秀吉による小田原征討の一環の忍城攻めでは、城の周囲に堤防が築かれ、水没の危機に瀕した。しかし城兵に堤防を破壊され決壊、水攻めは失敗に終わる。

「現在忍城址に建てられている櫓は江戸時代のものの再建で、戦国時代の城とは無関係」(小和田氏)とのことで、三成が水攻めした頃の遺構は残されていない。

 しかし忍城を訪ねたら、三成が陣を張った「丸墓山古墳」や、三成が築かせた築堤跡が残る「石田堤歴史の広場」、さらに当時の沼の名残を見ることができる「水城公園」にも立ち寄りたい。本丸と石田堤の位置関係を知れば、三成が行った水攻めの規模の大きさに驚かされるだろう。

 ではここからは、明智光秀が攻略するのに苦戦した堅城などを見ていこう。まずは、ランキングで第13位に選ばれた有岡城。

有岡城本丸に残る石垣。灯籠等の転用石も用いられている
有岡城本丸に残る石垣。灯籠等の転用石も用いられている

 有岡城は、織田信長に対し突如謀反を起こした荒木村重の居城で、東を流れる駄六(だろく)川と猪名(いな)川を天然の堀として、城下町全体を堀と土塁で囲んだ城である。村重はこの城に籠城し、1年以上も耐えた。

「村重が謀反を起こしたとき、光秀は村重の釈明を聞く使者として有岡城に派遣されています」

 これは光秀の娘が、村重の嫡男・荒木村次に嫁いでいるため二人は姻戚関係にあり、その点が考慮されたのではと考えられている。村重は翻意せず籠城を続けたが、「村重が城と家臣、家族を見捨て脱出したため士気が保てず落城します。このとき村重の妻子をはじめ600余人が、処刑されました」(小和田氏)。

 現在は城域が市街地化し、遺構はあまり残されていないが、JR福知山線伊丹駅の目の前の有岡城跡史跡公園には石垣や礎石、井戸跡などが残され、さらに「きしの砦」が置かれていた猪名野神社にも、当時の土塁が残されている。

 次に光秀が苦戦した城が、第29位の八上(やかみ)城。最寄り駅のJR福知山線篠山口駅からはバスに乗り、さらに登山口から山頂まで登山道を登り徒歩約50分は要する。

 八上城は篠山盆地を流れる篠山川の南岸に位置する、丹波富士・高城山に築かれた波多野秀治の居城。山一帯を城域とし、広大だ。天正6年(1578)から光秀に包囲され兵糧攻めに遭うも、降伏開城するまで1年以上も耐え続けた。

「八上城は、大規模な土木工事はされていませんが、自然の要害をうまく利用して築城されており、光秀が苦戦したのもうなずけます。城址には戦国時代の曲輪、土塁、石垣、空堀などがよく残っています」

 人質となった光秀の母が磔にされたとの話に由来する「はりつけ松跡」や、処刑に使った槍や刀を洗ったとされる「血洗池跡」も残されているが、これらは江戸時代の伝承にもとづく史跡で、史実とは限らない。

 なお、現在発売中の週刊朝日ムック「歴史道」では、「戦国の堅城ベスト30」の全城を写真付きで詳しく紹介している。(文/湯原浩司)

週刊朝日  2020年4月24日号

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