1960年、外観復元(当時の図面をもとに再現)された小田原城天守
1960年、外観復元(当時の図面をもとに再現)された小田原城天守

 第4位は、北条氏が築き上げた巨大城郭・小田原城。JR東海道線の小田原駅から徒歩約5分とアクセスがよい。北条早雲が扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に従う大森氏から簒奪後、3代の氏康、4代の氏政時代に拡張整備され、最終的に周囲9キロに及ぶ惣構を構築した城である。

「今の小田原城は、基本的には江戸時代の城で、戦国期の遺構ではありません」

 戦国時代の小田原城には石垣はなく、堀と土塁によって構築されていた。豊臣軍は、20万余の大軍で包囲するが、力攻めでは落とせなかった。

 第5位は、安土城のほど近くに残る六角氏の居城・観音寺城が選ばれている。

観音寺城の池田丸に築かれた野面積み(※注)の大石垣 (※注)づらづみ/自然石を加工しないで積んでいく工法
観音寺城の池田丸に築かれた野面積み(※注)の大石垣 (※注)づらづみ/自然石を加工しないで積んでいく工法

 最寄り駅は安土城と同じだが、登山口までは徒歩約40分となかなかの距離。さらに本丸跡まで登山口から徒歩約30分はかかる。駐車場が完備されているので、体力に自信のない方は車を使うほうが無難だろう。

 小和田氏も「曲輪の数が多いので、1日で全容をつかむのは不可能。また安土城よりも古い総石垣の城として貴重な城です」という。

 観音寺城には、1千ほどの曲輪があったとされ、攻城軍はこれらの曲輪を落とさない限り本丸へは辿りつけなかった。さらに山城ながら、曲輪の周囲には石垣も構築され、防御力は高い。

 しかし六角氏に反発した家臣が離反。織田信長に攻められると、城主の六角氏は、堅城の観音寺城を捨てて逃亡するほかなかった。

「防御の要は、結局は人であって城ではない」(小和田氏)ということである。

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第6位は石田三成が水攻めを行った…