1975年7月、皇太子ご夫妻(当時)はひめゆりの塔に花を捧げた際、過激派の男に火炎瓶を投げつけられた(沖縄タイムス提供)
1975年7月、皇太子ご夫妻(当時)はひめゆりの塔に花を捧げた際、過激派の男に火炎瓶を投げつけられた(沖縄タイムス提供)

 片や、すぐさま便乗値上げをした企業、小売店が続出したことに対し、消費者が怒りを募らせたのは言うまでもない。

 戦後、沖縄の人々は27年間の米軍統治下に置かれ、米軍人・軍属による事件・事故の頻発に悩まされ続けた。戦争末期、沖縄は「国体護持」「本土防衛」のための捨て石とされ、県民の4人に1人が犠牲となる悲惨な地上戦が展開された。戦後30年、戦禍の記憶は生々しく、皇室や本土に対する県民感情は複雑だ。

 75年7月、「復帰記念事業」として沖縄国際海洋博覧会が開かれ、名誉総裁という形で皇太子夫妻(当時)は初めて沖縄の地を踏んだ。だが、沖縄来訪は時期尚早との声もあり、是非論が盛んにかわされた。

■火炎びん事件の“意図せぬ効果”

 皇太子夫妻は初日に南部戦跡に向かい、糸満市のひめゆりの塔に供花する際、火炎瓶を投げつけられる事件に遭ったが、8月1日号は沖縄県民の歓迎ぶりを伝えている。

<お車は徐行しながらも、遠慮会釈なく通りすぎていく。車の中で、皇太子さまが例によって笑いながら手を振っておられる。美智子さまのツバ広帽子が、チラリと見える。その間、一秒あったかどうか。車が見えなくなって、振り向いた人たちの顔を見て驚いた。みんな笑っていた。目が酔っていた。まるで祭りのウズの中にいる人のようだった>

 一方で、県民のこんな声も拾っている。

<「天皇陛下なら別ですよ」でも、皇太子に責任はない。戦争の時は子どもだったのだから……>

 火炎瓶投擲事件の夜、皇太子は異例の談話を発表している。

「私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み……」

<やさしい沖縄の人たちは、ホロリとした。火炎びん事件と談話、この初日の出来事が、その後の二日間に多分“意図せぬ効果”をあげたのだ。早い話、地元の新聞の論調。革新性で鳴るある有力紙のコラムでさえ、

「この談話で、皇太子のファンがさらにふえた」

 と書き、

「三木総理以下は、皇太子の心をわが心とせよ」

 とやった>

 昨年、沖縄は復帰50年を迎えたが、県民が願う基地負担の軽減は進まない。当時の皇太子夫妻は上皇、上皇后となった。これまで11回に及んだ沖縄訪問で胸に去来したものは何か。60~70年代は目覚ましい経済成長を遂げながら、様々な社会や政治の矛盾が露わになった時代といえるだろう。(次回へつづく)(本誌・亀井洋志)

週刊朝日  2023年6月2日号