1960年6月、岸信介首相(当時)の退陣を求めて国会議事堂を囲んだデモ
1960年6月、岸信介首相(当時)の退陣を求めて国会議事堂を囲んだデモ

「戦後」から脱却し、著しい経済成長を成し遂げた1960~70年代の日本。華やかなイメージの裏で、社会の抱える様々な矛盾も噴出した。「週刊朝日」の記事をひもとくと、激動の時代を熱く泥臭く生き抜いた人々の息遣いが聞こえてくる。

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 時代は闘いの季節を迎えていた。1960年1月に締結された日米新安保条約を巡って、反対闘争の火の手は全国に燃え広がった。

 岸信介内閣は5月20日未明、本会議で採決を強行した。自民党は右翼から屈強な青年たちを秘書団として動員し、座り込みを続ける社会党議員と乱闘状態に。ついには警官隊まで投入された。以来、「安保反対」「岸退陣」を叫ぶ国民の声が、連日、国会を包囲した。抗議運動は全学連や労働組合、文化人らに限らず、一般市民にも拡大していった。

1960年7月3日号の本誌誌面
1960年7月3日号の本誌誌面

 アトリエで子どもに絵を教えていた小林とみらは、無党派の反戦市民運動「声なき声の会」の活動を始める。「だれデモはいれる声なき声の会。皆さんおはいりください」という横断幕を掲げ、日比谷公園から国会へと歩きだした。参加者は最終的に300人ほどまでふくれ上がった。7月3日号には、「声なき声の会」の列に一般市民が次々と参加していく様子が描写されている。

 25歳の女性は抗議デモを伝えるテレビのニュースを見て、東京都日野町(現・日野市)から1時間半かけて国会前へ駆けつけた。

<もともと、デモの経験もなく、家は本屋さんで、組織にもはいってなかったが、政府のやり方をみていて、いても立ってもおられずひとりででかけたのが十一日だった。そのとき集まっているたくさんの人の姿をみて、これは大変、毎日でもこなくちゃと、定期券を買った。ひとりで出かけて、じっとみていると、一般市民のデモがきた。「声なき声の会」という。彼女はその最後尾にくっついてあるいた>

 抗議運動が最高潮に達した6月15日、右翼グループがデモ隊に乱入する。全学連の学生たちは国会構内に入り機動隊と激しく衝突。多くの血が流れる中、一人の女子学生が死亡した。東京大学文学部の樺美智子である。

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