芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、予感について。

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 予感について何か? と言われても、普段、別に予感を求めているわけでもないので、予感が働いているのか、いないのかよくわかりません。

 だけど人間って、目に見えないアンテナを立てて歩いたり、仕事をしたりしているはずですが、あんまり意識はしていませんよね。予感をキャッチするための技術なんか書いた本などあるかも知れませんが、予感は何も求めていない時に、フト感じることを予感というのですかね。

 求めて得るものは予感ではなく考えでしょうね。予感は考えではないと思います。つまり脳の作業ではないような気がします。脳の作業から自由になった時、フト浮かぶ「何か」を予感というんじゃないでしょうか。

 僕は昔、禅寺に参禅していたことがあります。老師は何も考えるな、と言いますが、やっぱり考えます。考えから解放されて、自由になった時、理不尽にフト浮かぶことがあります。そのフトがもしかしたら予感なのかも知れませんが、これとて、予感なのかどうなのか実に不確かなものです。浮かんだからと言って、このことに拘るとそれは別に予感でもなんでもなく、単なる思いつきみたいなものです。

 とにかく、考える、考えないということからさえ自由になっている時に「感じる」ものを予感というのではないでしょうか。予感は「考え」と区別する必要があります。腹がへった、眠い、という身体的感覚は予感でもなんでもないです。

 では予感とは、ごくまれにしか起こらないものでしょうか。僕はそうは思いません。むしろわれわれは常に予感の大海の中で漂っている存在ではないでしょうか。自分の肉体、自分を取りまく大自然、宇宙、それらは実は予感のマザーコンピューターのように、予感に満ち溢れているように思います。これを時にはアカシックレコードと呼ぶことがあります。実は肉体の内も外も予感に満ち溢れているのではないかと思います。人間に必要な全知識が実は自分の肉体とその外側にビッシリと一分の隙もなく、ベタベタに埋まっているように思うのです。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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