掛布雅之(かけふまさゆき)/ 1955年、新潟県生まれ、千葉県育ち。習志野高校を経て、1973年のドラフト会議で阪神から6位指名を受け、入団。翌1974年から1軍で83試合に出場した。1975年のシーズンにサードのレギュラーを獲得すると、翌シーズンには打率3割2分5厘、27本塁打をマークし存在感を示し始める。1977年には主に三番打者としての先発が増え、1979年には主砲・田淵幸一が抜けたチームを牽引、本塁打48本で本塁打王を獲得する。1980年以降は不動の四番打者として活躍。1981年には打率3割4分1厘を記録し、同年からは5年連続で全試合出場を果たす。1985年には掛布を中心にバース、岡田、真弓らが猛打を爆発させチームは日本一に。掛布自身も本塁打40本、打率3割、打点108と申し分ない成績を残した。1988年に引退するまで本塁打王3回、打点王1回、べストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回など記録と記憶に残る活躍を見せた。(撮影・宇都宮ミゲル)
掛布雅之(かけふまさゆき)/ 1955年、新潟県生まれ、千葉県育ち。習志野高校を経て、1973年のドラフト会議で阪神から6位指名を受け、入団。翌1974年から1軍で83試合に出場した。1975年のシーズンにサードのレギュラーを獲得すると、翌シーズンには打率3割2分5厘、27本塁打をマークし存在感を示し始める。1977年には主に三番打者としての先発が増え、1979年には主砲・田淵幸一が抜けたチームを牽引、本塁打48本で本塁打王を獲得する。1980年以降は不動の四番打者として活躍。1981年には打率3割4分1厘を記録し、同年からは5年連続で全試合出場を果たす。1985年には掛布を中心にバース、岡田、真弓らが猛打を爆発させチームは日本一に。掛布自身も本塁打40本、打率3割、打点108と申し分ない成績を残した。1988年に引退するまで本塁打王3回、打点王1回、べストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回など記録と記憶に残る活躍を見せた。(撮影・宇都宮ミゲル)

 昭和のプロ野球史を彩った名選手たちの雄姿は、私たちの脳裏に深く刻まれている。そんな名選手たちに、長い野球人生の中で喜びや悔しさとともに今も思い出す、忘れられない「あの一球」を振り返ってもらった。全4回の短期集中連載でお届けする第1回は、ミスタータイガース・掛布雅之さんに聞いた。(宇都宮ミゲル)

【写真】イチローが「本当の天才」と言った男とは

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 一九八五年四月十七日、甲子園で生まれた伝説について語るプロ野球ファンは、いまだに多い。タイガースファンならずとも刮目せざるを得ないほど衝撃的なシーン。そう、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布(あきのぶ)のバックスクリーン3連発だ。相手は宿敵巨人、しかもマウンドにはエースの槙原寛己が立つ場面。阪神はクリーンアップの3人が続けざまに強烈な打球をバックスクリーンへ叩き込んだのだ。このシーズンは阪神が三十八年ぶり(1リーグ時代からの換算)の日本一をその猛爆打線によってもぎとったこともあって、かの3連発はチームの迫力を最も象徴した場面として我々の脳裏に刻まれた。とりわけ掛布のファンであれば、この四番打者のキャリアにおけるピークは一九八五年の3連発だった、と考える向きも多いだろう。あるいは、一九七八年のオールスターゲーム第3戦を、掛布という打者が最も輝いた瞬間だとするファンもいるかもしれない。三番打者としてセ・リーグのクリーンアップに名を連ねた弱冠二十三歳の掛布は、四番・王貞治、五番・田淵幸一といったホームランアーティストを差し置き、三打席連続でアーチを達成。そのボール運びの巧さに、後の大活躍を予見したファンは少なくなかった。

■レジェンドはとびきりの笑顔とともに

 こうした数々の名シーンを回想しながら少々の緊張とともに本人を待っていると、拍子抜けするくらいの明るさでミスタータイガースが登場した。端的に言うなら、底抜けの笑顔。現役時代の打席で見られた、硬く集中した表情とは真逆である。まずはホームランへのこだわりについて聞こうと質問を投げかけたところ、こんな答えが返ってきた。

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