岸田文雄氏
岸田文雄氏

 衆参院で多数の議席を維持し、盤石の体制となるはずだった自民党。しかし、安倍晋三元首相の急逝が危機をもたらす可能性があるというのは、政治ジャーナリストの星浩氏だ。

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 安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、参院選では自民党が大勝した。日本の政治が大きく揺れ動く。岸田文雄首相にとっては、衆参両院の国政選挙が今後3年間はなくてすむ「黄金の3年」が続くはずだった。だが、安倍氏不在の政界では保守派の不満が各所で噴出し、岸田首相は悩まされそうだ。「泥沼の3年」という危機をはらんでいる。

「この半年間、負担増や歳出削減を伴う政策を岸田首相や秘書官たちに伝えると、必ず『参院選まで待ってくれ』と突き返されてきた」

 霞が関の事務次官経験者はこう語る。

 当面は国民が嫌う政策を封印し、参院選で勝ったら不人気な政策にも踏み出そうというのが岸田首相の戦略だったという。その目論見(もくろみ)は当たった。参院選で自民、公明両党の与党は勝利し、衆院とともに与党圧倒多数の議席を維持したのだ。

 投開票に先立つ7月8日、安倍氏は遊説中の奈良市内で元自衛隊員の山上徹也容疑者に銃撃され、亡くなった。政界の最大実力者の突然の死は、戦後日本政治に最大級の衝撃を与えた。岸田政権は政局と政策の両面で先行きに不安を抱えることになった。

 そもそも安倍氏の力の源泉は何だったのか。

 安倍氏が衆院議員に初当選したのは1993年。政界では金権腐敗事件が絶えず、小選挙区制の導入を柱とする政治改革がうねりとなっていた。

 安倍氏と同世代の有望政治家は政治改革を訴えて自民党を離れた。石破茂、船田元、岡田克也の各氏らだ。石破、船田両氏は自民党に戻ったが、党内の視線は冷たかった。小選挙区制に慎重だった安倍氏は自民党にとどまり、同じ派閥(清和会)の先輩の森喜朗、小泉純一郎両元首相に可愛がられた。

 保守派の牙城(がじょう)である清和会は、小泉政権下で勢力を拡大。憲法改正を唱える民間団体など安倍氏を支援する保守派の輪も広がった。官界では、安倍氏は経済産業省や警察庁にネットワークをつくり、彼らが安倍政権で「官邸官僚」に就いた。霞が関ににらみを利かせ、長期政権を支えた。

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