街は変わっても下町人情が残っているのが北千住」と千とせさん。学生街に変貌したJR北千住駅東口で
街は変わっても下町人情が残っているのが北千住」と千とせさん。学生街に変貌したJR北千住駅東口で

 2月17日に心不全のため東京都足立区の病院で亡くなった漫談家の松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ、本名小谷津英雄=こやつ・ひでお)さん。1970年代半ば、「わっかるかなぁ、わかんねえだろうなぁ」のギャグで一世を風靡(ふうび)し、ツービート(ビートたけし、ビートきよし)の師匠としても知られていた。1月9日に84歳の誕生日を迎えた年男だった。

【写真】松鶴家千とせさん「トラック野郎」のロケ現場にて

 筆者は、生前の千とせさんに複数回インタビューしている。生い立ちから晩年の活動までをたどり、その人柄を紹介したい。

 松鶴家さんは中国東北部・黒竜江省チチハル生まれ。父は満州鉄道の技師で社宅に住んでいた。

「裏手に大きな沼がありました。チチハルの真冬は気温がマイナス10度以下なんてザラで、水面が凍ってテカテカになるんです。日没前には夕日が反射し、家も周囲の林も真っ赤っ赤。これがまぶたに焼き付いてて、あのヒット曲『夕やけこやけ』<わっかるかなぁ、わかんねえだろうなぁ>のギャグでの元ネタになったんです」

 敗戦直前、鉄路を守る父を残して家族7人で脱出。帰国後は父の故郷である福島県原町市(現、南相馬市)に身を寄せた。

「父は敗戦の前後に侵入してきた旧ソ連軍の捕虜になり、帰国できたのは6年後。それまでは8畳ほどの狭い部屋に7人で寝るような極貧生活でした。夏なんて、天井のネズミを食べに来た蛇の青大将が梁(はり)からポタンと落ちてくる。夜中に大騒ぎですよ」

 そんな中、楽しみの一つが隣家のラジオから流れてくるジャズやゴスペルのメロディーだった。講談や童謡しか知らなかっただけにとても新鮮で、いつしかジャズシンガーになることを夢見た。

 思いは募り、高校1年の15歳の時、宿泊先も頼る当てもなく、家出して上京。

「まず上野駅で知り合ったホームレスに教えられた新橋のジャズ教室へ行ったんです。事情を話したら、そばにいた女の生徒さんが『ウチの2階が空いてる』って。その子が当時の人気夫婦漫才コンビの松鶴家千代若・千代菊師匠の娘さん。しかも師匠のかばん持ちをさせてもらうことになりました。人のご縁というのは、本当に不思議なものです」

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弟子入りに来た2人の前座芸人がその後のツービート