「熊谷陣屋」で熊谷直実を演じる吉右衛門さん(左)
「熊谷陣屋」で熊谷直実を演じる吉右衛門さん(左)

 そして、この磨かれた演技は、「俊寛」の俊寛僧都や「極付幡随長兵衛」の幡随院長兵衛の凄味や悲哀、男の色気に余すところなく表出する。「勧進帳」の武蔵坊弁慶が勧進帳を読み上げる場面、義経を打擲する場面などに、観客は物語であることを忘れて陶酔した。

 若手を育てる立場になったときは、自分にも厳しいが、教えを乞うものにも妥協しなかった。こと芸の継承については完璧を求めて、小さなせりふ一つ、しぐさの一つもないがしろにすることがなかった。柔和な笑顔と背中合わせの、繊細で自他ともに認める気難しさとへそ曲がりの面が出ることもあり、テレビの当たり役「鬼平」になぞらえて、鬼の播磨屋とまで恐れられたという。芸を伝承する男児をもうけることのなかった寂しさと孤独が、厳しさにつながったとみる人もいる。

 仕事を離れて趣味とした絵画もまた、個展を開くほどの精進ぶりからしても、すべてに完璧を求めた人らしい。

 今年3月、倒れる直前の痛々しいまでのやつれように、関係者は心中穏やかではなかった。しかし、ひとたび舞台に立てば、完璧な姿で観客を魅了した。

 歌舞伎界は21世紀になって、中村勘三郎、市川團十郎、坂東三津五郎、坂田藤十郎ら昭和の名優を相次いで失った。いままた吉右衛門を失い、歌舞伎の行く先を案ずる声もあるが、歌舞伎に精通する人はいう。

「先代の吉右衛門亡き後も、やはり歌舞伎は大丈夫かといわれていた。しかし、歌右衛門を中心に昭和を代表する役者が育ち、名舞台が生まれてきた。今後は、娘婿の尾上菊之助や甥の松本幸四郎、三代目又五郎らが軸となって頑張るでしょう」

 吉右衛門さんは2013年、本誌のインタビューで語っている。「80歳で弁慶をお見せできる、よかったと思わせる演技でお見せできる、それが夢です」「その弁慶を自分の集大成にしたい」。守れなかった約束が哀しい。(由井りょう子)

週刊朝日  2021年12月17日号