文科省にカネと事務組織を握られているからか、大学の教養教育のカリキュラムに対してまでわけのわからない文部官僚が乗り込んできて、むやみやたらに口出ししたこともある。大学には、小・中・高校のように「学習指導要領」があるわけではないのだから、大学の先生は毅然として文科省の要求を突っぱね、文科省批判を繰り広げるべきだ。

 もっとも、だれでも大学に入れる今では、大学はインスティテューション(制度)としての役割を終えたのかもしれない。高度な技術を身につけさせてくれる機関は大学以外にもたくさんあり、大学の卒業免状は、真の教養人であることの証明にはならない。

 東大も例外ではない。東大を卒業したからといって、社会に出れば、自分がいかに「教養」がないかを実感するはずだ。だから、東大がエリートだというのも「幻想」の部分が大きい。一般の会社では、お荷物になっている東大卒というものが案外いるものだ。出世もできない。欲求不満だけがたまっている。するとどんどんすねてしまう……。出来の悪い東大卒ほど、やっかいなものはない。

 僕の社会人としてのスタートは週刊誌記者で、職業柄、多くの組織の東大卒と出会っているが、少数のトップエリート集団に入った本当にできる連中をのぞくと、変なやつ、ダメなやつが多い。

 社会の中のこうしたリアルな東大卒に会うと、東大への幻想は崩れてくるはずだ。一部の企業の間に、いまだに「東大=エリート」の幻想があるのは、こうしたリアルな場面に接していないからではないか。世の母親たちはそうした場面に遭遇することが少なく、東大に過剰な幻想を抱くことが多い。それが受験戦争が過熱する要因ではないか。

 実際、東大の教育が社会で通用しない場面は目立つ。特に海外では、官僚も一般企業のビジネスマンも、どういう教養が身についているかが大事で、東大卒の肩書なんて意味がない。

 外国に行って、本物のエリートとつきあえば、教養がないと話が続かないし、英語を知っているだけでは会話にならないことがよくわかる。日本のエリート、つまり東大卒の官僚たちが、ある程度の教養人ならば知っていて当然の単語を知らないことがよくある。ところが、その点を指摘されると、彼らは一様にすねるだけで終わってしまう。

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いちばんいいたかったのは東大批判ではない