そして何と言ってもまた来たくなる理由のひとつが値段が安いということで、私が通っていたころはジンギスカン一人前が五五〇円、小ライス一一〇円であったのだ。

 そんなことである夏の日の昼飯に何日かぶりで涎を流しながら「清水ジンギスカン」へ行ったら、一大事が起っていた。店の戸口に暖簾が掛かっていないばかりか、玄関のガラス戸も完全に閉めきられ、屋根の軒下に「清水ジンギスカン」と書いて貼り付けてあった看板も外されていた。私は誰も居ないその淋しい店の前で、ただ唖然呆然として立ち尽くすしかなかった。

 しばらくしてガラス戸の中央に一枚の貼り紙がしてあるのに気付き、近寄ってみるとそこには「当店は平成二五年七月五日(金)をもちまして閉店いたしました。長年のご愛顧誠にありがとうございました。清水ジンギスカン」と書いてあった。

 私は「清水ジンギスカン」に通うようになったある日のこと、店を切り盛りする女主人に聞いたことがあった。

私「この店はいつ開店したんですか?」
女主人「昭和三十五年です」
私「お店はいつもお客さんが多いですが、直ぐにてきぱきと対応してくれますね。一体何人で店を動かしているのですか?」
女主人「二人です」
私「えっ? たったの二人?」
女主人「ええ、私と娘だけです」

 淋しくなった店の前の貼り紙を見ながら、私はかつてそんな会話をしたこともぼんやり思い出した。もしかしたら娘さんが嫁いだのかなあ、いやひょっとしたら女主人の体調が勝れないのかも知れない。しかし何であれ五十三年間、よくがんばってきたなあ。そんなことを思いながら、残念だがきっぱりと「清水ジンギスカン」での昼飯は諦めようと気持ちを整理し、オールドリバーに向った。

こいずみ・たけお 1943年、福島県生まれ。東京農大名誉教授で、専攻は醸造学、発酵学。世界各地の辺境を訪れ、“味覚人飛行物体”の異名をとる文筆家。美味、珍味、不味への飽くなき探究心をいかし、『くさいはうまい』など著書多数。

週刊朝日  2021年2月26日号