「典子さんは、この展覧会の実行委員会名誉顧問という肩書を持っていらしたようです。それにしてもまた、出雲を留守にして東京に戻っているのか、と思いました」

 と話すのは、居合わせたメディア関係者だ。

 14年の結婚から間もない時期。「宮司の妻」という将来に備え、島根県・出雲で過ごしているはずの典子さんが、頻繁に帰京している、という話が出回った。

「典子さんが出雲になじめないようだ」といった話から、「離婚」や「別居」のうわさまで流れた。実際、16年の三笠宮崇仁親王の本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」の参列は典子さんのみ。翌17年に行われた高円宮憲仁さまの15年の墓所祭で目頭をおさえる典子さんを支えたのは、義母の礼子さんだった。

 この時期、千家家と親しい人物からは「国麿さんは精神的に参ってしまっている」という話も漏れてきた。ただ、典子さんと嫁ぎ先の関係は悪くはないようで、典子さんはなれ初めなどを楽しげに話す場面もあったという。

「千家家は、憲仁さまのご縁で、尊祐宮司が高円宮家を経済的なことはもちろん、あらゆる面で支援してきた」(神社本庁関係者)
 家を背負った婚姻であるのは、神社界では有名な話だ。お世継ぎ問題はどうか。

「出雲大社は直系だけで続いた家ではありません。親族にも優秀な人材はそろっていますから、お2人の間に子どもがいなくとも大きな問題にはならないでしょう」

 出雲大社の祭神は“縁結び”の神さまだけに、明るい未来を期待したいものだ。

■夫はガス中毒死、自宅に強盗、悲劇の皇女/鷹司和子さん(享年59)

 幸薄い皇女と呼ばれたのが昭和天皇の三女・鷹司和子さん(孝宮)だ。

 お相手は摂政や関白を務めた五摂家のひとつ、鷹司家の平通さん。戦後初めての女性皇族の結婚であり、華族制度の廃止によって「平民への初の嫁入り」と騒がれた。結婚式では三笠宮さまが、双方の名前をとって「平和結婚」とスピーチした。

 だが、第1子は死産し、そのあと子宝には恵まれず、1966年には平通さんが銀座のママの自宅でガス中毒死する。その2年後、強盗に遭う。自宅の台所に包丁を持った男が侵入。口をふさがれ、けがを負ったが、自力で玄関まで逃げた。事件を機に、赤坂御用地内の古い木造平屋の乳人官舎に移り、伊勢神宮の祭主を務めながらひっそりと暮らした。

 晩年は乳がんが全身に転移して闘病生活を送るものの、弱音を吐くことはなかった。89年5月、59歳の若さで息を引き取った。

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動物園運営、草むしりに励む姿