芸術の核のひとつに、何(な)んでもチャカしてやろうという精神があります。マルセル・デュシャンが画廊に便器を持ち込み、ダダやシュルレアリストは本来の言葉や事物の意味を転倒させ、慣例や常識を根底から崩してしまいます。ことわざにもそれに似た力があります。僕がことわざが好きなのは、すでに手垢(てあか)のついた民衆の中から生まれた言葉だからです。小説家の創作する言葉ではない、レディメイドのありふれたどこにでもある言葉です。その言葉を効果的に使うことで、日本語が生々と、血の通った豊かな言葉に変(かわ)ります。ポップアートの魅力にも共通していたり、鶴見俊輔さんの「限界芸術」にも通底するものがことわざにもあります。

 僕は将来画家になるなんて考えたこともなかったです。だから絵は最初から遊びです。今もその延長上で描いています。でも飽きっぽい上に、この年になると描くのが面倒で、どうでもよく、嫌(い)や嫌や描いています。感性だけで描いているので職業というより趣味です。人に感動を与えようなんて、考えたこともないです。サッサッと未完のままで仕上げて、あとは無為な時間を遊んでいます。

 絵は芸術の枠をはずすことで長く存続します。文学は思想云々(うんぬん)言いますが、絵は死想です。理屈を超えて死と向き合う芸術です。その一方で「四角な座敷を丸く掃く」手抜きのいいかげんな横着さも芸術に必要です。ナンチャッテ!

■瀬戸内寂聴「自決から五十年 三島さんの声聞こえる」

 ヨコオさん

 人間は生きている限り、自分では思いもよらない日を迎えるものですね。

 私は、この間、寂庵の廊下ですべって転んで、頭から倒れて入院騒ぎをしたばかりです。運が強いのか、しぶといのか、今は寂庵に戻って、平然と過ごしています。頭を余程打ちつけて、相当阿呆(あほう)になったらしく、仕事のはかどりが、のろくなって唖然(あぜん)としています。この調子では、もう商売も店終(みせじま)いをするほかないのかなと思案しています。でもそんなとり越し苦労をしないでも、そのうち、余命がつきて、けろりと死んでくれるかもしれません。

次のページ