以来、歌舞伎に関わる道のすべてが、作品との出会いによって開けていった。

 舞踊の大曲「鏡獅子」を踊ったとき、扇を返す場面で、稽古では一度も落とさなかったのに、本番で落としてしまったこともある。でも、それを拾って踊り出すと、不思議と、春の木漏れ日の中で踊っているような心地よさを感じた。

「最初は腕組みしながら、『どのようにやりよるかな』という構えた雰囲気だったお客様の気持ちが、扇を落とした瞬間、ワッと前にきた感じがあったんです」

 当時、師匠である猿之助さんは、3年に1度ぐらいの割合で、内弟子たちをマンツーマンで食事に誘った。「話を切り出すときの言葉は、『ここ2?3年見てたんだけどね』。師匠はため込むタイプなんです。毎回、ギクリとする指摘が続いて、食事も喉を通らなかったですよ」と言って、右團次さんは豪快に笑った。

■“なんのための歌舞伎か”

 歌舞伎から派生したケレン味という言葉がある。ケレンとは、放れ業、早替わり、宙乗りなど、奇抜さを狙った派手な演出のことを指し、それは師匠である猿之助さんが後世に伝え残そうとした歌舞伎の魂──その表現方法の一つだった。右團次さんは、8歳で憧れたそのケレン味に、20代半ばで足を掬われそうになる。

「僕は、師匠のことが大好きで崇拝しているから、似せようと思ってなくても芝居が似るわけです(笑)。そしたらあるとき、写真週刊誌に、『ミニ猿之助誕生!』という記事が載った。小でもミニでも、僕は師匠のことが大好きだから、嬉しくてたまらない。でも、その状況が5年ぐらい続くと、『いい加減、小とかミニとか言われないように』と注意された。20代の一番の試練は、師匠から、『今のままじゃ、歌舞伎はわからないね』と言われたときです」

 きちんとした古典を学んでいないことに愕然とし、1993年から8年間、「市川右近の会」と称し、あらためて古典を学ぶことに。

「『夏祭浪花鑑』という演目を上演したときは、初めて師匠に似なかった(笑)。理由を考えたら、僕にあって師匠にないものが一つだけ見つかった。それが“上方の血”でした。特にこの演目は、大阪が舞台。しかも地元がとても近かった。大阪生まれの僕にとっては、まさに自分の土壌にあるものだったので」

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