50作目の新作「お帰り 寅さん」は、年を重ねたそれぞれの俳優の深みがにじみ出たドキュメンタリーといえる。

 倍賞さんは言っていた。

「私の中にはいつも“さくらさん”がいました。倍賞千恵子とは違う、さくらさんの人生も同時に生きてきた気がします」

 観客動員延べ8千万人を記録。これまでの作品をすべて上映すると83時間20分になる。驚くべき数字である。

 ここで、この映画が生まれた背景について簡単に説明しよう。

 1968年夏。フジテレビのディレクター、故・小林俊一さんが、喜劇役者としてすでに売れっ子だった渥美さん主演のテレビドラマをつくれないかと考え、当時、新進気鋭の脚本家として注目されていた山田監督を訪ねたのがそもそもの始まりである。

「あの強烈な役者(渥美さん)と四つに組むには彼のことをよく知らなければいけない。それで僕の仕事場だった赤坂の旅館に来てもらったのです」と山田監督は語る。

 渥美さんは、少年のころ自分の目で見て憧れたという浅草や上野のテキヤの話をする。そして、テキヤの口上も披露した。

<四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐ちゃん立ち小便>
<やけのやんぱち、日焼けのナスビ、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たぬ>

 七五調で畳みかけるような表現力。落語の名人のような話しっぷりに、山田監督は驚嘆した。

 ドラマは68年10月3日からフジテレビ系で毎週木曜の夜10時から放送された。タイトルは「男はつらいよ」。テキヤを主人公にしたドラマがお茶の間に受け入れられるのかテレビ局のスタッフは不安だったが、視聴率は徐々に上昇。だが69年3月27日に放送された最終第26話。ハブを捕まえて大もうけしようと渡った奄美大島で、寅さんは逆にハブにかまれて死んでしまう。

 放送終了後、抗議の電話がテレビ局に殺到した。

「てめえのところの競馬中継はもう見ないからな」
「いまから殴り込みに行く。覚えとけ!」

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