――学校現場や教員を巡る問題、事件・事故……。いろんなテーマで著作を出してきたが、ひときわ“ズシン”ときた転機は2011年に起きた東日本大震災だった。

 たくさんの犠牲者を出した大川小学校(宮城県石巻市)を訪れました。この学校は僕の曽祖父が初代校長として30年以上勤めたところです。そんな縁もあって行ってみたんですが、もう見渡すかぎりの水と泥で、そこをたくさんの親たちがわが子を捜している惨状でした。

 物書きとしての下心で言えば、ここを取材すれば1冊書ける、と思いました。でもね、被災地に1カ月、2カ月といるうちに、そんな甘い考えでは何も伝えられない、と考え始めたんです。

 それまで御巣鷹山の日航機墜落事故など、たくさんの現場を取材してきました。そのときどきで忘れられない衝撃を受けたものです。その衝撃を抱えて現場を歩き、考え続けていると、必ず人間や社会の断面が見えてくる。

 だけど、東日本大震災の場合、断面は「底」まで見えてしまった感じかな。それを表現する方法をまだ見いだしていないと思い至ったんです。

 例えば、僕は長野県の出身だから海の仕事がわからない。漁師さんから「家も船も失いました」と聞いたら、一行で書けますよ。でも、そのひと言を発したとき、彼の頭に何が浮かんでいるのか、まったく実感がない。こんなことでは何も書けないと思って漁師さんに頼んでワカメ漁や銀ザケの養殖場に連れていってもらうことを繰り返したんですね。

 歴史に目を向けないといけない、ということも実感しました。いまもこの社会にはどこか東北を低く見るような差別意識が横たわっていると思います。戊辰戦争で東北勢が負け、薩長率いる明治政府に賊軍扱いされたこともある。さかのぼれば、ヤマトタケルが朝廷に従わない蝦夷(えぞ)を征伐したという古事記の記述もある。

 そうした流れをおさえておかないと、なぜあの事故を起こした原発が東北にあったのかということも理解できません。

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