そこで会ったのが、当時、新進デザイナーだった和田誠さん。腕まくりしたピンクのシャツにジーンズ姿で、手首にはミッキーマウスの腕時計だからね、格好いいですよ。そして和田さんは本当に作ってくれた。

 あのころ、目新しかったバッジは、あちこちで話題になり、売れに売れた。バッジをシャツやかばんにつけるというのが、オシャレに映ったんでしょうね。

 そしたら中学校や高校でこのバッジを禁止する学校が出てきたのね。「政治のことを考えるのは早い」というのが理由でね。世界中で10代20代が反戦デモをくり広げているのに「何も考えるな」というほうがズレているよね。でも、政治意識や社会的関心はオシャレとかカッコいいとか、そういうところから始まるんだ、と気がついた出来事でした。

――バッジをきっかけにベ平連の事務所に出入りするようになった。半年後には米軍の脱走兵を匿(かくま)う仕事で、結核病棟の空き室やハンセン病の施設に隠れ住んだり、軽井沢の別荘で過ごしたり、と全国を飛び回った。その間、食事や逃亡ルートも準備して、彼らにあれこれ指示もする。アメリカが偉大な国とは、だんだん思えなくなった。

 69年には仲間といっしょに新宿西口の地下広場でフォークゲリラを企画しました。1カ月後には数千人が集まる集会になった。ちょうど新左翼運動も盛り上がっていて、なかには投石で交番を壊すグループなんかもいたんですね。それで公安条例と道交法の違反容疑で指名手配され、青山の喫茶店にいるときに逮捕されたんです。ところが逮捕状を見ると、僕に関係ないことがたくさん書かれていたから、こちらから裁判を起こして争ってね。20日間ほど留置場に入っていましたが、起訴もされないまま出てきました。

 大学はこのころ、3年で退学しました。もっと勉強したい、と考えたんですね。それから1年半ほど雨戸も閉め、ほとんどアパートから出ない生活をしていました。本ばかり読んでた。1日2冊は読んだかな。

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