「かくし子」だった皇室ジャーナリスト 美智子さまとの意外な“出会い” (2/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「かくし子」だった皇室ジャーナリスト 美智子さまとの意外な“出会い”

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週刊朝日#皇室
渡邉みどり(わたなべ・みどり)/1934年、東京生まれ。早稲田大学卒業後、日本テレビ放送網入社。80年、ディレクターとしてドキュメント番組「がんばれ太・平・洋─三つ子15年の成長記録」で日本民間放送連盟賞テレビ社会部門最優秀賞受賞。59年の皇太子成婚パレード中継など皇室報道で活躍し、昭和天皇崩御報道では総責任者。近著『心にとどめておきたい 美智子さまの生き方38』(朝日新聞出版)は7刷と好評で、自伝として『かくし親』(講談社)がある (撮影/工藤隆太郎)

渡邉みどり(わたなべ・みどり)/1934年、東京生まれ。早稲田大学卒業後、日本テレビ放送網入社。80年、ディレクターとしてドキュメント番組「がんばれ太・平・洋─三つ子15年の成長記録」で日本民間放送連盟賞テレビ社会部門最優秀賞受賞。59年の皇太子成婚パレード中継など皇室報道で活躍し、昭和天皇崩御報道では総責任者。近著『心にとどめておきたい 美智子さまの生き方38』(朝日新聞出版)は7刷と好評で、自伝として『かくし親』(講談社)がある (撮影/工藤隆太郎)

渡邉みどりさん(撮影/工藤隆太郎)

渡邉みどりさん(撮影/工藤隆太郎)

 結婚を諦めた母は、そのとき父の家から受け取った資金を使い、20代後半で「渡邉看護婦会」(看護師紹介所)を東京・青山で開業。働きながら育ててくれました。誰の人生にもいくつかの岐路があるものですが、私の場合、生まれた瞬間が最初のターニングポイントだったのかもしれません。

「自分の家は普通の家と違う」

 と気づいたのは、小学校に入学したあとのことです。物心ついて初めて父に会ったことで、「なぜ、父は毎日うちに帰ってこないのか」という疑問を持つようになり、母に何度も尋ねたことを覚えています。そのとき、母から「父には別の家がある」と聞きました。父にはそのとき、別の家庭があったのです。

 未婚の母がまだ珍しかった時代、母に対する風当たりや偏見は今よりもずっと強かったと思います。

 小学校の友だちに、「みどりちゃんのお母さんはお妾(めかけ)さんよね」などと言いふらされ、「学校に行きたくない」と母に訴えたことがありました。

 中学生のころ、私の名付け親でもある父方の祖母のお葬式へと出かけたときには、父の家族から「金銭目当てではないか」と疑われ、早々に追い出されてしまったこともありました。帰りの列車の中、屈辱感で涙が止まらなかったのを思い出します。

 そんな生い立ちを知っている人からは「よくグレなかったわね」などと言われます。

 けれども愚痴ひとつこぼさず、忙しく働く母の姿を見ていたら、そんな気にはなりませんでした。また母の仕事柄、人の出入りも多く、にぎやかな家庭だったため、さみしさを感じずにすんだのもよかったのでしょう。住み込みの看護師見習いの女性たちからは、ずいぶんとかわいがられました。

 母は非常に教育熱心で、小学校時代、あまりできのよくなかった私に対しては「さあ、勉強、勉強」が口癖でした。高校卒業後、「短大で……」と尻込みしていると、大学への進学をすすめたのも母でした。

 大学受験では、共学になったばかりの早稲田大学と、看護学校にも合格していたため、周囲からは「看護師になって、看護婦会を継いだほうが……」と随分すすめられました。けれども、私の夢を知っていた母は、

「親も子も同じ分野じゃつまらないじゃない」

 と、早稲田大学への入学を後押ししてくれました。


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