大センセイが讃えたワインは、あえなく回収されてしまったのであった。
ワインの銘柄というのもまた、複雑怪奇である。
取材の一環で、ワイン通の女性と高級イタリアンレストランに行くはめになったときのことだ。薄暗い店内には、当たり前だけど、「ホッピーのナカちょうだい!」なんて叫んでいるオジサンはひとりもいない。
テーブルに着くと、ソムリエが現れて慇懃に革張りのワインリストを渡してくれる。開いたとたんに、冷や汗が流れ落ちた。高い、ものすごく高い。
悪夢を振り払うように、次のページをめくる。まだ高い、ぜんぜん高い。下へ下へと視線を走らせても、正常な精神状態だったら絶対に払わない金額が並んでいる。しかし、だからといって、一番安いのを頼むのもカッコ悪いし、いったいどうすれば……。
大センセイの窮状を見かねたのか、ワイン通の女性が口を開いた。
「ワタシ、カベルネ・ソービニヨンがいいな」
そうだ、ワインは値段ではないのだ。銘柄なのだ。値段なんか気にしないで好きなワインを飲んで、いまという時を楽しめばいいのだ。それこそワインだ!
大センセイ、ようやく腹が括れた。
「では、カベルネ・ソービニヨンを」
「かしこまりました。で、どちらのカベルネにいたしましょうか」
「へっ?」
エリックの指が節くれだっていたことを、この原稿を書きながら思い出した。
※週刊朝日 2019年7月12日号