15歳のとき、親にねだって、初めて楽器を手にしました。3千円の中古のクラリネットでした。といっても、ボディーはドイツのベークライト(樹脂)製で、ベルの部分はアメリカのエルクハート製、マウスピースは日本製っていう、まあ、寄せ集めでしたが(笑)。

 買ったはいいけど、吹き方もわからない。駄菓子屋のおじさんが昔、無声映画の映画館でクラリネットを吹いていたと父から教わり、店先で3日間、1回10円で指の使い方や音階を教えてもらいました。楽譜も読めないから、ひたすら耳で覚えて練習。映画館のおじさんがタンゴバンドのリーダーをしていて使ってもらえることになり、週末には米軍に接収されていた日光のホテルにも行きました。一晩で300円もらえました。

――高校を卒業後、上京。昼間は銀座のダンスホールで、夜はキャバレーで演奏する毎日だった。

 高校時代は、まさかプロのミュージシャンになるなんて思ってもいませんでした。父親の本職は琵琶師でしたが、電気修理業で生計を立てていました。いずれ自分も電気修理を継ぐだろうからと工業高校に進みました。でも音楽に夢中で。それで、高校卒業後、親に「2年間だけ、好きにやらせてほしい」と頼み込んだのです。

 東京での生活は、昼夜の給料を合わせると、月給は1万7千円にもなった。高卒の初任給が7千円くらいでしたね。持っていた楽器を下取りに出して、4万円の米国製のサックスを買ったところ、警察が怪しんで自宅まで来たんです。「どうしたんだ」と。それくらい、未成年ながら、ちゃんと稼いでいました。

 いつも帰りは深夜。タクシー代がもったいないから、六本木の仕事場から世田谷区三宿のアパートまで歩きました。渋谷の道玄坂を上がったところに「フォリナーズ」という外国人クラブがあって、日本のトップミュージシャンのたまり場になっていたんです。テナー・サックスの松本英彦さんやドラムの清水閏さんなどが、夜な夜なジャムセッションを繰り広げていました。

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