ちょっと抽象的なんだけど、と前置きしながらそう説明してくれたのは、日本大の田中……じゃなかった、元日本代表の中田英寿さんである。

「その部分だけは、イタリア人はいつも大切にしてきた。だから、彼らの守りは特別なんじゃないですか?」

 イタリアは今回のワールドカップへの出場を逃している。世界王者に4度もなった国にとっては途方もない痛みだろうし、これを機に様々な改革を、という機運はもちろんある。けれども、守備に対する意識の高さだけは、今後も手つかずのまま残されるだろう。そこに手を入れることは、イタリアの歴史を断ち切ることにもなりかねないことを、彼らは本能的に知っているからである。

 何しろ、彼らは66年のワールドカップで北朝鮮に敗れるという世紀の大失態を犯しながら、それでも自分たちのやり方を全面否定することなく、4年後のメキシコ大会では準優勝を遂げているのだから。

 実を言うと、もう40年以上サッカーを見てきたが、わたしは、昔も今もイタリア代表が好きではない。理由は簡単。結果に重きを置きすぎる彼らのスタイルは、第三者にとっては退屈だから。ただ、外野だけでなく、時には内部からも手厳しい批判を浴びながらも、守るべきものを守り続けた彼らには心底感服する。

 そして、できることならば日本もそれに倣いたい、と思う。

 02年にトルシエが去ったあと、日本サッカー協会が後任に選んだのはジーコだった。このとき、協会の首脳部が描いていたのは「技術重視で攻撃的」なチームだったはず。残念ながらこのチームが本番で結果を残すことはできなかったが、続くオシムも、ジーコと同一ではないものの、同じ指向性を持った監督だった。

 ところが、オシムが病気に倒れたことで、せっかく4年以上続いた流れはプツンと切れる。やむを得ない部分があったとはいえ、後任の岡田武史は極端に守備的な方向に舵を切ったからである。

 Jリーグが国民的な娯楽となり得ておらず、代表のサッカーが強い影響力を持つ日本にとって、この方針転換の持つ意味は大きかった。「勝てば内容は度外視」というサッカーの見方が、劇的に広まってしまったからである。

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