そう教えてくれたのは、前回の本欄でも紹介した「伝説の風俗ライター」で、戦後の一時期、上野や新橋でポン引き稼業をしていた吉村平吉さん(2005年、84歳で死去)である。氏によると、かつての東京には開放的で自由な風が吹いていたという。著書『実録・エロ事師たち』にこう書いている。

〈今日のように暴力団的な売春組織や強制的な売春形態はほとんど見られず、それでいて、売春婦と業者と仲介者との間には、それなりの秩序なりルールがあって、ヤクザやテキヤとはまったく違った特異な非合法社会を形づくっていた〉

 どことなくおおらかで人情味豊かな世界だったというのである。客にしても相手の売り文句など、ろくに信じていなかった。「どんなコが相手になってくれるかな」などと想像をたくましくしていた。「偶発性と意外性」を楽しんでいたと言っていいかもしれない。

 ポン引きは、仲間内では自分たちのことを「源氏屋」と呼んでいた。由来はよく分からない。浅草と上野だけで計500~600人の源氏屋がいたというが、新橋での人数ははっきりしない。

 客が支払った料金をショバを仕切る「経営者」のところに持って行き、そこから「オトシ」と呼ばれる割り前をもらう。腕のいいポン引きなら一晩に3千~8千円を稼いだとも伝えられる(昭和30年前後)。うまくいけば、2晩で大卒の初任給くらいにはなった計算である。

 再び吉村さんの著書『実録・エロ事師たち』を引こう。服装についてこんな説明がある。

〈ハッタリ的要素やサギ的要素は不必要だし、むしろ不純とされてきた。(中略)お供いたしますというスタイルが肝心。しかも遊びに誘う道楽の風情がそれらしく漂わなければならない〉

 もちろん銀座では場所柄、洗練された背広姿でなければいけなかった。その土地ならではのスタイルが大切だったのだ。

 以前、新宿の歌舞伎町を取材した際に知り合ったスカウトマンが「声をかけるのにはコツがある」と教えてくれた。手当たり次第に呼び止めてもうまくいかない。人をきちんと見極め、お金も遊び心もありそうな人に声をかけるというのである。相手との位置取りも大事。客の前方斜め45度くらいで声をかけるのがベスト。真ん前だと圧迫感があり、後ろからでは相手が驚いてしまう。「何げなく相手の視界に入って声をかけるんです。でもね、これがなかなか難しいんだよな」と言っていた。

 声をかける相手を間違うと大変だ。

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