(撮影/大塚淳史)
(撮影/大塚淳史)

 80年代のきらびやかなバブル絶頂期にヒットした荻野目洋子(49)の代表曲「ダンシング・ヒーロー」(1985年)。当時の彼女の新曲発表会には大勢の報道陣が押しかけた。それから32年の時をくぐり抜け、今年再び大ブームに。インタビューで心境を語ってもらった。

――ダンシング・ヒーローがヒットした頃、荻野目さんの衣装についていたアクセサリーが、激しい踊りで飛び散っていたことを思いだします。私も自分のところに飛んできたビーズのアクセサリーの破片を、大事に持っています。

「アハハ、けっこう、アクセサリーは飛んでました。当時の日本は経済が右肩上がりで、バブルな雰囲気の中、この曲のヒットに恵まれました。でも、今はもっと堅実な時代ですね。だから、この曲が注目されているのは、ものすごく意外に思えて、そんな時代になったのかなというのが正直な気持ちです」

――この曲は数年かかって、ジワジワ再ヒットしたと思います。その秘密は?

「『ダンシング・ヒーロー』は当時、オリコンチャートとかで1位を取ってないんですよ。ただ、みなさんの記憶にふりつけの印象が残っていたり、イントロをなつかしんでくださったりして、数年前から盆踊りに使っていただいたりしていた。お笑いタレントの平野ノラさんがテレビ番組での登場曲に使ってくださったり、何かこう、楽曲をモチーフに遊び心で取り上げているのではないかと」

――それが今年、大阪府立登美丘高校ダンス部の「バブリーダンス」が「日本高校ダンス部選手権」で準優勝し、ブレークのきっかけとなりました。SNSや動画で拡散され、それがダンサーたちにもひろがり、たくさんの人たちが振り付けをネタに踊ってます。同高ダンス部とコラボしたときはどんな感じでしたか。

「彼女たちは動画の中では大人っぽいバブルな感じですが、実際はものすごくピュアな女子高生でたちで、かわいいんです。年齢でいったら親子のような違いがあるのに、コラボしたら共鳴し合えました。波長が合ったんです」

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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