――毎週のように執筆するエッセーのネタはどのように生まれるのでしょうか?

池谷:ネタには困りません。日常のことは書いていませんから。毎朝起きたら、30分ほどかけて100から200の論文をチェックするんです。私が寝ている間に、米国やイギリスでは研究が進歩しています。朝起きたら世界の知見が進歩しているのです。私がひとりで発見しようとすると、たぶん非力で困るはずです。でも、世界中の知的な研究者たちが、ネタを提供してきてくれるわけです。それに目を通し、研究に役立つものと、エッセーに使えるものに仕分けるのが毎朝の日課です。論文を読むと、冒頭には動機や背景に関係するような参考文献があって、それを孫引きします。それだけでもう、一回のエッセーに書ききれないほどの情報が手に入るのです。それを加工しつつ、自分ならではの着眼点を半分ほど入れ込んで書いています。

――池谷さんの文章を読みふけると、君はどう思う?と、自分自身の脳と会話するような気分になります。そして、科学的事実を並べるだけでなく、末尾には「オチ」が入っています。たとえば、「興味あるものはなぜ記憶に留まるのか」という研究に触れるエッセーでは、名画「モナリザ」で有名な巨匠レオナルド・ダヴィンチの名言を用いています。

池谷:ダヴィンチは「食欲がないのに食べると健康を損なうように、興味がないのに勉強しても記憶にとどまらない」と言っています。この言葉に注目すると、覚えた対象に興味をもつのではなく、興味をもっているときに勉強せよと主張しています。正鵠(せいこく)を得た表現です。知識欲があるとき、対象すらないけど、なにか知りたい。そういうときに勉強しろ、とダヴィンチは言ってるんでしょうね。ダヴィンチについては、エッセーでいつか触れたかったのですが、自分でよく書けたと思った文章が、必ずしも妻が評価してくれるものと一致するとは限りません。おもしろいですね、自己満足というのは。技巧的に文章を書いても、伝わりません。

 学術論文は「起承転結」ではなく、「起承結」です。論文の場合は論理的に進め、余計な推測はしない。本当は、このデータから、あんなこと言いたい、こんなことも言いたい、とストレスがたまるわけです。エッセーは、そのストレス発散にもなります。オチ方のコツについては、コラムニストの小田嶋隆さんの文章に影響を受けています。

次のページ