――池谷さんは教育職という立場から、教育現場の雰囲気を向上させようと、内心では「もっとできるだろう」と嘆きつつも、「褒める」ことが少なくないでしょう。半ば偽善的な日常を過ごすことで、他人から褒められると「どうせお世辞だろう」と思われるのだとか。

池谷:猜疑心。そういうのあります。悲しいです。人が心から優しい顔を見せても、絶対裏があると思う。本当は善意なのに、私は悪意を感じてしまう。損な性格です。どうしたらいいんだろう。この猜疑心の強さ。だから、ひとりで飲みに行っちゃうことになるんです。もったいない性格だなと思うんですが、直せないんです。業績を上げたとき、「すごいですね」と評価の声をいただいても、ヤキモチを焼いているのかなと思う。圧倒的に業績があると自認できる場合は、素直になれるのですが。たとえば、ノーベル生理学・医学賞の山中先生に、すごいですね、と言うときは本当じゃないですか。あるいは私の本を読んで研究室に来てくれた学生がいるわけですが、そういう人たちは本当のことを言ってくれているだろうなと思うわけです。結局、本とか業績とか、外的要因から、他者の発言を判断することしかできないのですよね。確かなものがない以上、科学者として、そしてまた教育者として、そうなってしまいます。妻はお世辞を言いませんから、家庭は大丈夫です。最近頑張っているけど、体大丈夫? それは本当に心配しているわけです。

――記憶は「個性」であり、「人格」そのものであり、誕生前から少しずつ貯蓄してきた「宝物」という表現は興味深いです。

池谷:いろんなことを勉強して、学んで経験することによって、いま見ていることの感じ方が変わります。目の前のことを習得できるか、学習できるか、は過去の自分に依存しているんです。準備をしているかどうかが、学習できるか、なんです。あるいは学習の仕方が変わることも肝心です。過去の自分が得た知識を未来の自分が使うんですよね。いま得た知識は過去のものとブレンドされて未来に活用されるのです。それが個性です。個性は随時醸成され、再構築されていきます。脳を見ているとまさにそういう動きをします。神経回路を一旦壊し、新しい情報や経験を加味する。前の知識を取っておきつつ、新たな回路を蓄積していくのです。だから、ぜったい元には戻りません。つまり、学習においては、それまでに何を経験してきたかが、ものすごく重要になってくるわけです。いきなり知りたい中心地に飛び込んだだけではダメ。別の知識を事前に知っておいたうえで、初めて理解できるものもあります。学習には知る順番があるというわけです。

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