宗谷は荒れ狂う南極海の暴風圏を越え、プリンス・ハラルド海岸に迫る。飛行機を飛ばし、行く手を阻む氷海に水路を探し、犬ぞりや雪上車で偵察へ向かう。そしてたどりついたのが大陸の数キロ手前にあるオングル島だった。

 57年1月29日、永田は「昭和基地開設」を宣言する。輸送、基地建設といった作業が不眠不休で始まった。白夜の夏は短く、帰途の日程も迫っていた。建物と食料、燃料が整い、残るは日本との通信手段の確保だ。越冬の可否は作間の手にかかっていた。銚子無線局にモールス信号を打ち続けたが、つながらない。

「もう1回だけ」

 作間はそう念じていた。すると信号が返ってきた。「感度良好!」

 2月11日のことだった。これを見守っていた永田の日記がある。

「……『オメデトウ、オメデトウ、サクマサンデスカ……』作間の手が紙の上に鉛筆を走らせる。彼の横顔を見ていると、一筋眼から流れ落ちた。その後から後から涙が出ている。……私は見ていられなくなって目をそらした」

 強気に振る舞っていた永田の感情の吐露が見える、数少ない場面だ。

 そして迎えた離岸の2月15日。

「……『誠に御苦労で私の努力もいたらなかったが─』と話し出したら西堀氏は双方の手で私の右手をいたい程握りしめ『有難うございます、有難うございます……』と泣き崩れた。年齢五十三になる男子のこのなきくずれる純情の姿を見せられては、私もひとりでに涙が出て来た」

 越冬隊11人を残し帰途へ着く2月15日、朝日新聞社会部の高木四郎記者の記録がある。

「残るものも去るものも、隊員も乗組員もみんな泣いた。大の男ばかりが抱き合って、あれほど泣いた場面はほかに見たことがない。最後までソリのあわなかった隊長と副隊長も、涙を流して握手していた……。白瀬中尉がかつて『いつの日か南極にも、人煙上り車馬往来する日が来るであろう』と予言したその日がやってきたのだった」

(朝日新聞記者・中山由美)

週刊朝日 2017年2月3日号より抜粋