日本の家族と交信する作間隊員(手前左)や西堀越冬隊長(右端手前)ら (c)朝日新聞社
日本の家族と交信する作間隊員(手前左)や西堀越冬隊長(右端手前)ら (c)朝日新聞社

 1957年1月29日、未知なる氷の世界に、昭和基地は開設された。日本の南極観測の幕開けであった第1次隊。朝日新聞社の記録をはじめ、犬係だった北村泰一(85)ら1次隊員の証言などをもとに、観測に向けた準備や山男たちの様子を紐解いていく。(文中敬称略)

準備が進む中、56年1月から2月にかけ、北海道で訓練を実施。舞台は濤沸(とうふつ)湖だ。冬は零下25度で、厚い氷が張り、「南極」をイメージできた。湖畔に立つ民家が離れの小屋を貸した。その家の長女・石垣ハマエ(80)は「見たこともないものばかりが来た」と、当時の興奮を鮮明に記憶する。

 馬ぞりやトラックに積んだ荷物が次々に到着する。1.5トンのいすゞの発電機や竹中工務店の建築資材のほか、無線機、そり、車両は、小松製作所や日産自動車、日本石油、本田技研、日本電池などが提供した。最高の技術を結集した、初めての「極寒試験」だ。 

 隊員候補らは凍った湖の上に小屋を建てて寝泊まりした。越冬を見据えた食材選びは重要だ。「米は洗うと水を使う。ぬかをとっておこう」「野菜は冷凍がいい。トマトやジャガイモは粉末でも使える」……。

 石垣家は事務所要員の食堂となった。ナポリタンを生まれて初めて見たハマエは「気持ち悪かった」と思い出す。度肝を抜かれたのは飛行機だ。「湖の上に降りて来てびっくりした」。湖畔は毎日のように人だかりができ、見物人目当てに食べ物の屋台も立った。

 1次越冬隊員となる、作間敏夫が使う無線機も注目の的だった。電話は役場や郵便局など、町に数台しかない時代。湖畔と湖上の小屋で交信している姿でさえ、物珍しがられた。

 だが、順風満帆とはいかず、またも衝突。訓練の打ち上げの席で永田と矢田が声を荒らげた。

「計画は隊長の私が立てる」「訓練や準備をしているのは朝日新聞社だ」

 2人の溝が深まったのはこの頃だったが、その背景には「山岳部の競争」があったとも言われている。

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