朝日新聞社会部の記者だった矢田喜美雄は出身の早大の山岳部を引き入れ、設営をまとめていた。これに対抗したのが東大山の会だ。永田武が東大教授であることを強みに、隊員候補を対象にした乗鞍訓練で主導的立場を見せた。東大OBたちはそろって「南極探検に母校の極地グループが支援しないでどうする。設営を自分らにまかせろ」と永田に迫ったという。

 京大出身の山男・西堀栄三郎も動き出す。京大山岳部の後輩で1次越冬隊員となった北村泰一はその一人だ。「犬係になって南極へ行きたい」と西堀を頼って上京。犬ぞり訓練に参加するため稚内へ飛ぶが、そこで存在感を誇示したのは、地元の北大の山岳部だった。

 山男たちはこぞって観測隊の席を狙った。昭和基地建設に携わった平山善吉は日大山岳部だった。募集を聞きつけ面接に行くと、200人ほどが順番を待っていた。学生だから無理だろうとあきらめていたが、建築を学んでいたことが功を奏し、後に最年少で1次夏隊に選ばれる。一方、矢田だけではなく、早大には1席も巡ってこなかった。

 その後、永田は国際社会に認められる研究観測を重視し、57年は「予備調査」、翌年から「本観測」と考えた。一方の西堀は「基地ができてこその観測」と設営を重視し、「氷海や上陸地の偵察に航空機が必要」と主張。西堀は奇策を講じ、南極の情報収集に赴いた豪州で「基地を建設したら、観測機材の保護、基地の維持などのため十人程度の越冬要員を残すことは絶対必要である」と明言。これを朝日新聞で発表する形にしてしまう。

 文部省学術課長は朝日新聞社の事務局に「山の連中がまた仲間ケンカを始めている。困った」と報告した記録が残っている。

 建築や機械、航空、電波技術、食糧など各学会も委員会をつくり、準備を始めた。朝日新聞社は1億円を出資し、読者から約4千万円の寄付を集めた。国民の盛り上がりは一気に高まった。

 時にぶつかった永田、西堀、矢田、そして山男たち……。「両雄並び立たず」。でも、異なる強い牽引(けんいん)力が融合してこそ、南極観測は実現した、と当時の関係者たちは振り返る。

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