復活の狼煙(のろし)をあげたニッポン柔道。その最終日、大トリを飾ったのは100キロ超級の原沢久喜(ひさよし)(24)。仏の絶対王者を追い込み、銀メダルを取ったニッポンの新星だ。
柔道の100キロ超級決勝。会場となった「カリオカアリーナ2」には数え切れないほどの仏国旗が揺れた。お目当ては同国代表の英雄、テディ・リネール(27)。
ところがこの日の戦いぶりは王者らしくない。原沢が組もうと迫るが、とにかく逃げて、逃げまくる。「アルプス一万尺」の手遊びのように原沢の手をはじく。組まれたら投げられるのを知っている。この男が日本の柔道を苦しめている「JUDO」の頂点。組めない状況では原沢の技も思うように出せない。判定に影響する「指導」はリネール1、原沢2。このわずかな差が「金」と「銀」を分けた。決勝後、原沢は言う。
「そんなに大差はないと思いますし、作戦で埋められるすき間かなと思いますが、まだまだ今回は足りなかった。(相手の)勝ちに対する執念を感じました」
史上初の全7階級メダル獲得の最後を締めた原沢。試合中や稽古同様、淡々とした表情で振り返る。柔道関係者によると「どんなに疲れても一切顔に出さない」のが原沢なのだ。ところが一度だけ、本人がププッと笑い崩れる瞬間があった。スタンドに来ていた母親の敏江さん(54)が話題にあがったときだ。
「あーはい。いや……ハッハッハッ。本当に自分のために今日は戦ったっていうんですか、まあ~へ、へへ」
実は原沢、いかにも明朗で活発な母敏江さんに女手ひとつで、妹、弟とたくましく育てられた。
山口県下関市出身なのにフグが苦手。柔道を始めたのは小学1年だ。
「性格がやんちゃだったので。きょうだいや友人とトランプしていても、自分が一番になれないとガーッとメチャクチャにしてしまう。これは何か武道をやったほうがいいと思ったんです。負けん気も強かった。柔道ではそれがよく出ました」と敏江さん。近所の大西道場スポーツ少年団に通わせた。
道場で指導した石田充さんは当時の印象を「寡黙ですけど、練習は追い込む。バンバン投げても心が折れない子でした」。性格は落ち着き始めたが、それでも思春期だ。妹や弟にちょっかいを出してはケンカになる。反抗されて腹を立てた敏江さんも勢い余ってタンスを蹴破り、足が抜けなくなったこともあった。
中学に柔道部がなく、道場の紹介で地元の早鞆(はやとも)高校柔道部の練習に参加し、そのまま同高へ進学。現在の身長は191センチだが、高校入学時は170センチ台。高校総体3位など、実績が出始めたのもこのころだ。同高柔道部の中村充也監督は「強くなって成績が出るとさらに強くなる。高みを目指したときの集中力がすごかった。真面目にこつこつ、手を抜かない部員でした」と振り返った。