「愛情をください」と訴えた岡田有希子 死の直前、シクシク泣いて「事務所へ行きたい」 (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「愛情をください」と訴えた岡田有希子 死の直前、シクシク泣いて「事務所へ行きたい」

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「不思議な子でね、新宿音楽祭など金賞が2組ある賞を取るとニコニコしていたのに、1組しかもらえない賞だともらっても浮かない顔をした。どうしたんだと尋ねると、私がもらったら他の歌手のファンに悪いなんて言ってました。有希子はレコード大賞最優秀新人賞を取りましたが、この賞を取れたのは、うちでは他は桜田淳子だけ。(松田)聖子も取れなかった。“最優秀”はなかなか取れないのです」

 だが、そんな有希子は86年4月8日の昼すぎ、突然、自ら命を絶ってしまった。

 福田氏は少し苦しげに、当時を振り返った。

「その朝、(創業者の故・)相澤(秀禎)から『有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ』と電話が入ったんです。駆けつけるとカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた有希子が泣いていた。ワーッと声を出して泣くのではなく、シクシクという感じで。幸いためらい傷だけだったので、医者に入院の必要はないと告げられ、私は有希子を連れてタクシーに乗りました。『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』と尋ねると、事務所がいいと言うので、四谷へ向かったのです」

 当時、有希子はデビュー2年目。8枚目のシングル「くちびるNetwork」(作詞Seiko、作曲坂本龍一)が初のチャート1位をとり、ポスト聖子として人気は絶頂だった。3月末に高校を卒業し、4月に下宿していた相澤氏の家を出て、念願の一人暮らしを始めたばかりだった。

「有希子を6階の社長室に連れていき、私と付き人の女の子が寄り添いました。しばらくすると外にいた相澤から電話が入ったので、私が隣室に移った。その隙に彼女はスウッといなくなってしまったのです」

 有希子はその直後、自ら命を絶ち、福田氏は1時間後、相澤氏とともに記者会見に臨んだ。

「会見のときは本当につらかった。しかし、記者の質問には正直に全部、答えようと相澤と話し合って臨みました。俳優との交際も原因ではないかと記者らに問われましたが、真相はわからない。私がわかっているのは、有希子が素敵な子だったということ。彼女のお父さんに葬儀のとき、『短い人生でしたが、人生を凝縮したような幸せな子でした』と言われました。相澤も私も、どれほどその言葉に救われたかわかりません」(一部敬称略)(本誌・藤村かおり)

週刊朝日  2016年8月19日号


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