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 故・相澤秀禎氏が創業し、1968年にスタートした小さな芸能事務所・サンミュージック。はじめて福田時雄名誉顧問(86)が「仕事を辞めたい」と思ったほど、悲しく、つらい出来事があった。84年にデビューして「ポスト聖子」と期待された岡田有希子が自ら命を絶ったのだ。

「あれから30年も経ったが、有希子のデビューのころの生き生きした姿は今も目に焼きついています。私の中では、時間が止まったままなのです」

 有希子は中学2年のときに日本テレビ「スター誕生!」に応募し、翌年、名古屋地区予選に出場した。そのころのスタ誕の予選は審査員による点数付けではなく、プロダクションやレコード会社の担当者が客席で「いい」と思ったらボタンを押し、その数が基準に達したら合格というシステムになっていた。予選会場にいた福田氏は有希子に対して「桜田淳子に通じるオーラ」を感じた。

「有希子が会場に出てきた途端にいいと思い、ボタンを押しました。周囲にも“ほら、ボタン押して押して”と促したほどです。でも予選に受かったはいいが、学校の先生や親に反対されて本戦出場は難しかった。そこで有希子は親と学内テストで1番をとる、住んでいる地方の統一模試で学年5位に入る、志望高校であるトップの進学校に受かる、などの約束をして、そのすべてをクリアしました。そしてやっと許しを得て本選に出ました。本当にまじめな努力家でしたね」

 有希子のデビューに対し、事務所内で意見が割れたという。

「私はスタ誕の名古屋選出の有希子を推したのですが、別のスタッフは千葉選出の子を採りたがった。結局、私の意見が通ったのですが、千葉の子がデビューしていたら、有希子の運命も違ったかもしれないと悔やむときもありました……」

 デビュー当時、福田氏は有希子を連れ、仙台にある所属レコード会社の営業所へ挨拶に訪れたときのことが忘れられないという。

「有希子は『恋人のいらっしゃる方は3分の1、奥様のいらっしゃる方は4分の1で結構ですから有希子に愛情をください』と言いました。こんなことを話した子は初めてでした。独身の男性社員が『僕は100%です』と言いだし、大変、盛り上がりました。その後、札幌に一緒に行ったとき、彼女が街を歩いていたら雪でステーンと転んだ。大丈夫かと見たら、しばらく有希子は仰向けに寝たまま、『星がきれい』と言っていましたね」

 念願のデビューを果たした有希子は歌や踊りのレッスンをがんばり、ルックスの愛らしさも話題になった。同期には荻野目洋子や菊池桃子、吉川晃司などがおり、賞レースで競ったが、有希子は周囲に気を使う“繊細で優しい面”があった。

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