「新人のときに“老眼と近視の違い”を記事に書くことになりましたが、何度書き直しても、花森さんは『わからない』と言う。赤字を入れたのを見ると、テンとマルしか残っていない。その時は、ふて腐れて“花森さんて頭が悪いんじゃないのか”と恨んだりしましたが(笑)、書き直された原稿は非常にわかりやすい。どうしたら追いつけるのか必死でした」(河津さん)

 昭和天皇の長女・東久邇成子さんを始め、川端康成、志賀直哉などの著名な人の原稿を多数掲載していたことも人気の理由だ。

「鎭子さんは、鎌倉まで何度も足を運び、川端先生に原稿を依頼。『書いてあげる』と言われてもなかなか原稿がもらえず、最後はぶわーっと涙を流してお願いして、原稿をいただいたそうです。喜怒哀楽を真っ直ぐにぶつける鎭子さんのひたむきな姿は、著名な方からも可愛がられていました」(当時を知る出版関係者)

 普段は名編集長だったが、芸術家肌の花森氏は、プイッと機嫌を損ねてしまったこともあったという。

「そんな時、社長の鎭子さんが花森さんに『あなたは、仮にも名編集長といわれる花森安治でしょう。それがなんですか、ちょっとしたことで怒りだして!』などと説得していました。そんなことを言えるのは鎭子さんだけ。二人は名コンビでしたね」(河津さん)

 毎日15時には“おやつの時間”もあった。花森氏はいつも「早く文章が上手になってくれ」と怒ったが、おやつの時間には、意外な一面も見せたという。

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