空前の落語ブーム!(※イメージ)
空前の落語ブーム!(※イメージ)

 作家でコラムニストの亀和田武氏が、週刊朝日で連載中の『マガジンの虎』。今回は本邦唯一の演芸専門誌「東京かわら版」を取り上げた。

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 志ん朝さんが亡くなったのは2001年。あれがコタえた。落語を聞く気力が失せ、回復するのに15年かかった。

 ホール落語の会場にときおり通うようになったのが、昨年の春だ。誰を、どこで聞くか。ネットで調べるよりも“紙”で知るのが一番だ。

 そんなときには「東京かわら版」、ホント重宝してます。本邦唯一の演芸専門誌だ。1月号の表紙は三遊亭小遊三。好きだよ、この人。「笑点」は年に数回だけチラ見するけど、小遊三の顔がアップになると、元気が湧く。

 インタビューも味がある。21歳のとき三遊亭遊三に入門する。「師匠の遊三はその時、角刈りで白のタートル、紺の背広を着てた。『いいな、あのあんちゃん』って思ったんだ」。師匠もまだ30歳だ。遊三の思い出を訊かれ「師匠のところは厄介なこともなくて居心地がよかった。師匠が鷹揚だったからもった」。稽古はつけてくれましたかの問いには「はい。稽古中、私がにやって笑うと『お前今笑ったろ』って言いながら自分も笑っちゃって稽古にならない」。

 色川武大の芸人エッセイを連想させる味わいがある。寄席と、その楽屋にただよう空気に思いを馳せる。

 巻頭エセーも、いいよ。尾藤イサオの登場だ。「僕は昭和37年にロカビリー歌手としてデビューする前、昭和32年からは色物の世界にいました。鏡味小鉄に11歳で入門して鉄太郎の名前で太神楽曲芸をやって」いた。彼を初めてテレビで観たときの衝撃がよみがえる。プレスリーの「ハウンド・ドッグ」や「ワンナイト」を歌うときの身のこなしは、ファンキーでセクシーだった。11歳で寄席に出ていたから、あんなブルーズ感あふれる歌手になれたんだなと悟る。

週刊朝日  2016年1月29日号