長宗我部家17代当主・長宗我部友親「小少将という名の美貌の女城主」 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

AERA dot.

長宗我部家17代当主・長宗我部友親「小少将という名の美貌の女城主」

このエントリーをはてなブックマークに追加
週刊朝日
多くの男性を引き寄せた美しき女城主が…(※イメージ)

多くの男性を引き寄せた美しき女城主が…(※イメージ)

 2017年からは大河ドラマ「おんな城主 直虎」が始まり、注目を浴びる女城主。元親の四国統一で有名な長宗我部一族にも、かつて美しき女城主がいたと、長宗我部家17代当主・長宗我部友親氏はいう。

*  *  *
 鳥取の池田家の当主、池田百合子さんが、絶家(ぜっか)を決められたと聞いた。

 祖父の14代当主であった仲博さんは徳川慶喜の五男で、名家である。しかし、池田さんは子供がおらず、養子をとることもせず家を閉ざすという。

 織田信長には20人を超える子供がいて、三七(信孝)とか於次(秀勝)とかいろんな幼名を付けたといわれる。また、秀吉も多くの側室を持っていた。徳川家は、御三家というシステムをつくったうえに、大奥を設けて、系譜を守った。

 元親にはあまり女性についての話は聞かないが、一人だけ側室がいた。阿波の勝瑞城(しょうずいじょう)にいた女性といわれていて、当家の系図には「小少将(こしょうしょう)」と同じ名が記されている。

 小少将という名の女性は、勝瑞城の女城主として、阿波でよく知られていた。「勝瑞城に咲いた妖花」ともいわれ、美貌で、元親のみならず多くの男性が引き寄せられたようである。

 かつて徳島新聞の方に案内していただいて、勝瑞城の城址を見に行ったことがある。

 勝瑞城は日本三大暴れ川の一つといわれる吉野川(旧中富川)の本流と支流に挟まれた中州に造られた平城であった。だから現在は川の流れが変わり、城の姿は消え去っている。城があったと思われる場所には「勝瑞城跡」の説明書きがある程度であった。

 このあたりは染料の藍の産地で、地名も「藍住町」である。

 本能寺の変の後、天正10(1582)年の8月、長宗我部元親はこの城を攻めたが、なかなか陥落しなかった。

 司馬遼太郎の小説『夏草の賦』(文春文庫)にもこの戦いでの一場面が出てくる。元親軍がその城を攻めている最中に、吉野川が氾濫し、長宗我部勢は水を避けるため木の上に登る。だが、それを待っていたとばかり勝瑞城の兵が舟を漕いで城から出て来て、木の上にしがみついている長宗我部兵を次々と鉄砲で撃っていく。この戦術を「鳥刺し」と司馬さんは書いている。

 元親は、水が引くのを待って、意を決して、大軍による総攻めを実施した。

 勝瑞城には、三好家の一族で十河(そごう)家に養子に入った十河存保(まさやす)がいたが、この戦いで十河側は多くの犠牲を出し、存保は讃岐の虎丸城に逃亡する。

 そのとき、城に残っていたのが、小少将である。小少将は一説では42歳で、元親は44歳であった。この年齢でも小少将の容色に衰えはなかったのであろうか。

 足利政権の政治向きの仕事をしていた細川持隆が勝瑞城主だったときに、吉野川を遡(さかのぼ)ったあたりにあった西条東城で、小少将を見初めた。女好きといわれた持隆である。

 この持隆は都に行きがちで、その留守を任されていたのが三好義賢であった。だが、その義賢が持隆を討ち、小少将はその義賢の妻に収まっている。妖女といわれる所以(ゆえん)でもある。この義賢と小少将の子が十河存保である。

 はたして勝瑞城の小少将が、当家の系図に記されている小少将と一致するかどうかを確認できる記録は今はない。

 少子化時代に入り家を繋いでいくことは難しくなっている。当家の絶家もそう遠いことではないであろう。そんな気がする。

週刊朝日 2016年1月15日号


トップにもどる 週刊朝日記事一覧

続きを読む

おすすめの記事おすすめの記事
関連記事関連記事

あわせて読みたい あわせて読みたい