戦後の引き揚げに関する資料が、抑留とともにユネスコの「世界記憶遺産」に登録された。編集部に届いた100通を超える手紙からは苦難の歴史がにじみ出る。旧満州や朝鮮半島、フィリピンの地で、九死に一生を得て生還した人たちの記憶をたどりたい。
◆「もらわれた」子供
ソ連と朝鮮の国境に近い、満州(現・中国東北部)の琿春(こんしゅん)にある琿春西本願寺。戸川史朗さん(78)は、同寺住職の賢乗さんの長男として生まれた。敗戦後、日本人住宅は中国人や朝鮮人に略奪、破壊され、家も奪われた。父は出征したまま戻らない。母と二人で郊外の琿春寺に、20余りの日本人家族と身をよせた。
寺といっても本堂の仏像や仏具はむろん、窓は枠ごと外され、障子や風呂釜、果ては便器まで奪われ廃墟同然の場所である。
誰もが栄養失調に苦しんだ。野草を摘み、コーリャンの粥と、大豆の滓(かす)を固めた馬の飼料で命をつないだ。
中国人にもらわれる子供が出てきた。支配階級であった日本人の子供を育てているのだと自慢し、見せびらかして歩く中国人もいた。
その年の秋、ふっくらした血色のいい8歳くらいの男の子が、琿春寺に姿を見せた。原色がきれいな満服(中国服)を着て、「中国人の養父の家でおいしい物を食べている」と自慢した。だが、数カ月過ぎた寒い日、中国人宅の庭先で、石臼で穀物をひく牛と男の子の姿を目にした。
「服はボロボロで目は落ちくぼみ、顔も体も痩せこけている。寺に来たあの子に似ていました。私に気づくと、恥ずかしそうに、だが懐かしそうに何か言おうとした。しかし、養母らしき女性が怒鳴りながら鞭を打ち、私は追い払われました」(戸川さん)
後に、男の子は別の家に売られたと人づてに聞いた。至るところでこうした光景を目にしたという。