「いまの人は、子を手放した親を薄情に思うかもしれない。しかし夫は出征して行方知れず。仕事もなく、5人の子供を連れて物乞いをする母親も珍しくない。餓死させるよりは、預ける道を選んだのです」(同)

 戸川さんと母親は48年夏に帰国。1年後、厚生省から、父の遺骨箱が届いた。同封された書類に、47年にシベリアのコムソモリスクの収容所で死亡したとあった。「遺骨箱」を開けると、「戸川賢乗」と書かれた紙が1枚入っていた。

◆「豆腐と日本人妻を交換しろ」

 佐野浪子(なみこ)さん(94)は、長男の隆三さんを通じて編集部に手記を寄せてくれた。

 浪子さんは、日本内燃機(現・日産工機)で車の設計技術者として働く夫の常彦さんとともに、満州国奉天市(現・遼寧省瀋陽市)へ移住。そこで敗戦を迎えた。ソ連兵や中国人が日本人の女性を連れていき、自宅に押し入っては銃で脅し略奪を繰り返した。常彦さんが食料を調達し、浪子さんは息を殺しながら社宅の床下に潜む毎日だった。

 ある日、ひとりの中国人が、天秤棒に桶いっぱいの豆腐を担いで社宅へ現れた。浪子さんと豆腐を交換しろと迫った。誰もがロクに食べていない。数日は、飢えをしのげる量である。

 常彦さんは突っぱねたが中国人は、「買ったあとは、不自由させない」としつこかった。浪子さんは手記で当時をこう回顧している。

<妻を売ったり攫(さら)われたりする事が、珍しくもないようになっていた中、夫はよく私を守ってくれた。隠れて、売られて行く奥さんを見た事がある。その奥さんの、絶望の色を浮かべた目を、今でも忘れられない>

 翌46年夏、引き揚げ列車が出ると知らせが入り、他の社宅の家族と駅へ向かった。中国人の村を通過すると、物陰から視線を感じた。薄汚れた満服を着ているが、日本人女性だった。浪子さんは、次のようにつづった。

<哀しい目をしていた。私たちにはその人を連れて帰る力はない。その人も分かっていた。ただ黙って私たちが通り過ぎるのをじっと見つめていた>(手記から)

週刊朝日 2015年11月27日号より抜粋