「『見解』には『外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる』場合に自衛のための措置が容認されると書かれている。『外国の武力攻撃』が日本へのものと明言されていないことに目をつけた安倍政権は、同盟国などへの攻撃も日本の自衛の措置の対象に含まれる場合があると主張しているのです」

 こうした安倍政権の理屈を説明すると、角田氏は苦笑してこう切り捨てた。

「横畠(裕介・現法制局長官)君がそう言っているの!? そういう分析をした記憶はないし、そういう理解はなかったと思いますね。ここに書かれている『外国の武力攻撃』は、日本そのものへの攻撃のことです。日本が侵略されていないときにどうなる、なんて議論は当時なかった。これを根拠に解釈改憲なんて夢にも思っていなかった。いやあ、よく掘り出したものだね」

 角田氏の話を裏付ける別の証拠もある。

 そもそも72年10月7日に「見解」が作成されたのは、同年9月14日の参院決算委での社会党議員の集団的自衛権についての質問がきっかけ。そこでは、角田氏の上司で「見解」作成の最高責任者だった吉国一郎法制局長官(2011年に死去)が、こう答弁しているのだ。

<他国が──日本とは別なほかの国が侵略されているということは、まだわが国民が、わが国民のその幸福追求の権利なり生命なり自由なりが侵されている状態ではないということで、まだ日本が自衛の措置をとる段階ではない。日本が侵略をされて、侵略行為が発生して、そこで初めてその自衛の措置が発動するのだ>(議事録から)

 他国ではなく日本そのものが攻撃されない限り自衛の措置をとれないと、ハッキリ言っている。吉国長官は、こんな強い言葉も使っていた。

<わが国は憲法第九条の戦争放棄の規定によって、他国の防衛までをやるということは、どうしても憲法九条をいかに読んでも読み切れない>(同)

 これらの答弁をまとめたものこそが、「見解」なのだ。

 前出の小西議員は8月3日の参院特別委で吉国氏の答弁について横畠法制局長官を問い詰めたが、横畠氏は「72年当時の事実認識が、近時の安全保障環境の変化によって変わった」などと繰り返すばかりだった。小西議員がこう憤る。

「横畠氏は集団的自衛権の行使を認める論理は『見解』を作った担当者の頭の中にあったと答弁していましたが、吉国長官の答弁に加えて、角田氏本人の証言で、まったくのインチキが露呈してしまった。まさに法的安定性の否定そのものです。官僚たちとこの議論をすると、みんな青ざめて口ごもる。法案が違憲だとわかっているんです。安保法制は、安倍政権による事実上のクーデターにほかならない」

 日本はいつから、こんなに“危ない”国になってしまったのか。

週刊朝日 2015年8月28日号